石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

『さくらんぼの性は』(ジャネット・ウィンターソン[著]/岸本佐知子[訳]、白水社)感想

さくらんぼの性は (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

さくらんぼの性は (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

魔術的リアリズムが冴えわたるほら話

おもにピューリタン革命時代のロンドンを舞台に描かれる、奇想天外なほら話。ごくおおざっぱに言うと「鬼をもひしぐ巨体の女傑『犬女(ドッグ・ウーマン)』と、その養子『ジョーダン』の冒険をめぐる物語」なのですが、この小説のストーリーを逐一説明するのは愚の骨頂かと。この小説は生き物です。虚実がはなやかに入り乱れる万華鏡を眺めていたと思ったら、お話が突然読み手の現実にまでぐいと手をのばしてリンクしてくるんです。その魔術的なパワーがすばらしいし、豊かで皮肉がきいたセクシュアリティの描写(レズビアニズム含む)もよかった。

まず、虚実の入り乱れ具合において。近松門左衛門が「芸といふものは実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるもの也」と説き、谷川俊太郎が「うその中にうそを探すな/ほんとの中にうそを探せ/ほんとの中にほんとを探すな/うその中にほんとを探せ」とうたったものが、この小説の中で美しく結実してます。ガチガチのリアリズムや「史実」を積み重ねれば「ほんと」が描けるかと言ったら、描けないわけですよ。山川の教科書でクロムウェルがどーしたこーしたと読むだけで人間の「ほんと」がわかるか。わかりゃしないって。それよりも、象をもふっとばす巨体にして「気は優しくて人殺し」(『訳者あとがき』より)の犬女がピューリタンをメタメタにやっつけ、

その日以来あたしは我ながらあっぱれの働きをして、つぎの満月の晩には、みんなの血なまぐさい復讐話を聞こうと勇んで出かけていった。ところが不思議にも、他の人はだれも正しい行いのあかしの品を持ってきていなかった。そこであたしは景気づけに、袋いっぱいの戦利品を床の上にあけた。目玉が全部で一一九個――数が合わないのは、最初から片目の男がひとりまじっていたからだ――それに歯は二千本以上あった。

なんて言ってる(p. 124)のを読む方が、脳髄にひびいてくるものがあるわけですよ。「いや、どっちにしろ過去の話だし」なんて言ってられません、後半になってこのお話は現代にまで触手をのばし、あなたの首根っこをひっつかみにきますからね。犬女もジョーダンも、読み手が安全圏からぼんやり眺めていられる他者なんかじゃないんです。時間の流れも自他の境目も飛びこえ、うそとほんとの間で踊るトリックスターなんです。

次に、セクシュアリティについて。異性装もゲイネスもレズビアニズムもその他の性のありようもたっぷり出てくる作品なのですが、何より面白かったのは12人の踊る王女の部分です。魔法がとけて「立派な王子たち」にめとられたはずのこの12人が、誰ひとりとしてそのまま「いつまでも幸せに」なんて暮らさず、むしろ王子と別れて好きなようにやっているというこの皮肉。これを見てもわかるように、とにもかくにもヘテロセクシズムが徹底して茶化され、笑いのめされる物語なんです。

異性愛が笑われてるんじゃないですよ。「男女が結ばれれば自動的に幸せになれる」というおめでたいイデオロギーが笑われているんです。ラプンツェルや「かえるの王さま」、犬女にフェラチオさせた変質者、そしてピューリタンがシーツに穴をあけてセックスしたという史実まで下敷きにして現実を読み解いていく意地悪な観察眼に惚れました。

ちなみに12人の王女のうち3人は女性の恋人を持っていて、


彼女の他には誰も要りませんでした。ただ彼女に触れているだけで幸せでした。この指を彼女の顎の割れ目からなだらかな乳房へ這わせ、平らかなお腹から秘密の場所へ向かうと、そこはきっともうじっとりと濡れています。それからうつ伏にして、背中の丘を手のひらでゆっくりと滑り降り、お尻のあわいの密かな小径を探検するのです。

なんてモノローグ(p. 76)がつるつる出てきます。人魚と暮らしている王女の話もよかったなあ、ファンタジックで、それでいて奇妙な現実味があって。これら以外にも女性同士の恋愛関係を豊富に盛り込みつつ、それでいて「とにかく女同士の愛こそ至上」みたいな思考停止におちいらないバランス感覚も絶妙。この作家らしい血みどろの想像力が、いい具合にカウンターウエイトとして働いてるんですね。前半に出てくる娘「チラ」のエピソードなど、ぞくぞくさせられました。

まとめ

うそとほんとのマーブル模様の中、時空を越えてそびえ立つ痛快オモシロ小説。史実も寓話も等しく噛み砕き、飲みこみ、再構成していく手腕がみごと。アホな異性愛主義に対する皮肉な視線や、ただの同性愛礼賛におわらないレズビアニズム描写も楽しかったです。おすすめ。