石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

『弱法師』(中山可穂、文藝春秋)感想

弱法師(よろぼし) (文春文庫)

弱法師(よろぼし) (文春文庫)

能がモチーフの恋愛短篇集

「弱法師」「卒塔婆小町」「浮船」の3篇を収録。能をモチーフとし、性描写なしで「これまで以上のエロスを」追求した(あとがきより)という1冊です。レズビアン・テーマが登場するのは「卒塔婆小町」と「浮船」で、どちらもじんと胸に染みる良作。能そのものを知らなくても、基本的な古典知識だけでじゅうぶん楽しめる1冊かと。

「卒塔婆小町」について

駆け出し小説家の高丘が深夜の墓地で出会ったホームレスの老婆は、伝説の元辣腕編集者だった――。題名の「卒塔婆」はふたりの出会いの場所から、「小町」は老婆の若かりし頃の美貌からきているのだと、すぐわかります。でも、それだけじゃないんです。かつて彼女の愛を得るため100本の小説を捧げると誓った小説家の名前が「深町遼」とあっては、日本人ならピンと来なくちゃ。そう、これは小野小町と深草少将の物語なんです。ちょっと調べれば、同名の謡曲「卒塔婆小町」があることもすぐわかります。

伝説を下敷きにしつつも古くささは微塵もなく、むしろ現代的要素のディテールのうまさで読者を圧倒しまくる小説です。たとえば、序盤で高丘からブルゴーニュのワインをせしめた老婆のこの台詞(p. 100)がすごい。

うん、こいつはいいね。悪くない。しっかりと野性味を主張しながら、実にエレガントな後味を持ち合わせている。口に含むとまず弾むような若さに圧倒されるが、ゆっくりところがして口腔ぜんたいでこの若さをいとおしんでいくうちに、これがやがて成熟したときの豊穣の渋みを予感させる重たい喉越しとなって滑り落ちていく。胃の腑におさまったそのあとで、野生の鹿が優雅に目の前を行きすぎていくような静かで深い後味がやってくる。これはいい。気に入ったよ。

積年の垢とフケで妖怪と見まごうほど汚れ果てたホームレスの老婆が、さらりとこんなことを言うんですよ。「この婆さん、何者!?」という驚きのあまり、ここから始まる老婆こと百合子の昔話に一気に引き込まれてしまいます。

百合子が男たちからの降るような求婚に応じなかった理由に至っては、小町伝説の新解釈として大いに推したいほど。

段ボールにぎっしり詰まったじゃがいもの中から、一個だけ選ぶことなんてわたしにはできなかった

こんなこと(p. 95)を言うんですよ、百合子という人は。これだけで、わかる人にはわかるでしょう。

「わたしはじゃがいもより、さつまいもの方が好きなんです」

ここ(p. 152)まで来れば、もっとたくさんの人がわかるはず。レズビアン要素があると言ったのは、そういう意味です。

結末もよかったです。雪は伝説とは少しちがった形で降り、思いもよらぬ方向から感動が押し寄せてきます。高丘の役目は謡曲の「僧」であったのだな、と、最後になって気づいた次第。

「浮舟」について

父と母、そして魅力的な伯母「薫子」の謎めいたつながりに胸騒ぎをおぼえる少女・碧生(みどりお)の物語。題材は能の「浮舟」、つまり源氏で言うと『宇治十帖』の、あの日本一有名なNTR(寝取られ)ストーリーです。薫子とはつまり薫中将なわけ。

この薫子さんがとんでもなく魅力的でねえ。賭けてもいいけど、女にもてまくるタイプ。冒頭の登場シーン(pp. 207-298)からして、こんななんですもん。

「よっ」
と、薫子おばさんは座敷に上がりこむなり誰にともなく片手を挙げて挨拶し、障子の向こうに耳を澄ませたかと思うと、照れ隠しのように芝居じみた声で、
「ああ、これだよ、この蝉しぐれだよ。このすさまじい鳴き方がたまんないねえ。この蝉たちの重層的なオーケストレーション、これが鎌倉の夏だよねえ」
と呟いてみせた。ただそれだけのことで、さやさやとその場に清涼な空気が流れていくのを、高校生のわたしでも感じることができた。いつでもおばさんはこんなふうに、長い不在の時間を一瞬にしてチャラにしてしまう。

これだけでもう、読者の心は時間も空間も飛びこえて夏の鎌倉に吸い寄せられ、この「美人というよりは、男前」(p. 211)な女性の前で全身を蝉しぐれに浸したくなってしまいます。

ここで薫子さんのこうした言動を深く愛しつつ、

二枚目なのにわざと三枚目を演じて、フーテンの寅さんになりたがっているようにわたしには見える。

と述べている(p. 211)碧生の繊細さも、またよかった。冒頭で書いた通り女性と女性の恋愛が登場するお話なのですが、この碧生から薫子への思慕も、百合小説としての味わいやおもしろさを大いに高めていると思います。哀しみや切なさの中に力強いメッセージが伝わってくる結末もすばらしく、3篇の中ではこの作品がいちばん好きです。セックス描写なんて皆無でも、女同士の愛はここまで描けるものなのですね。

まとめ

古いモチーフを新しい鑿で刻んで彫りだしたかのような、立体的でみずみずしい短篇集。細部まで神経の行き届いた文章と、切ない読後感がたまりません。レズビアンものでは、恋の哀切とそこからの救済を描く「浮舟」が特によかったです。