石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

そろそろ官能の話もしようか―映画『キャロル』3回目鑑賞後の感想(ネタバレあり)

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※初回~2回目鑑賞後の感想はこちら:

  1. 誰も死なない(!)極上のラブロマンス― 映画『キャロル』感想(ネタバレあり) - 石壁に百合の花咲く
  2. 変化する人、しない人、そしてテーマの普遍性―映画『キャロル』2回目鑑賞後の感想(ネタバレあり) - 石壁に百合の花咲く

注目すべきは性的テンション

まだまだ絶賛"Keep Caroling"*1中です。今回の感想は、この映画の官能表現について。女性同士のベッドシーンの存在が強調されがちな本作品ですが、注目すべきはむしろ、実際の行為に至るまでのロマンティックな性的テンションだと思います。

してないうちから、したも同然

上で言う「性的テンション」というのは、たとえば旅先でキャロルがテレーズにお化粧をほどこして、ふたりで女学生のようにキャッキャとはしゃぐシークエンスに顕著です。あんなにリラックスした格好で、ソファーではなくその前の床に仲良く座って、お酒を飲みつつイチャイチャガールズトークして、しかも香水をつけっこした首を当たり前のようにつと傾けて「嗅いで」って……ちょっとキャロル! それから、そこで躊躇なく顔を寄せて深々と香りを味わうテレーズも! この時点では一応まだ身体を重ねていないとは言え、あんたらもうセックスしたも同然でしょうっ!!

さらに言うと、そこから遡って「ブルーのセーター取って」の場面ではだけたバスローブから胸元を覗かせている洗い髪のキャロルには「どう考えても思いっきり誘ってるだろうキャロル!」と突っ込まざるを得ませんし、実はその直前、キャロルの服についこっそり顔をうずめてしまうテレーズの姿から、観客はテレーズは今さら誘惑されずとも既に性的にキャロルに惹かれていることを知っています。残る疑問は「いつ!?」だけ。いつふたりは身体を重ねるのか? いつ、いつ、いつ?

暗示はもっと早期から

もう少し丁寧に読み解くならば、冒頭のリッツ・タワー・ホテルでテレーズの肩に置かれたキャロルの手からしてもう、ここまでの間にふたりの間に肉体関係があることは暗示されてるんですよね。1回目の感想でも触れた通り、レズビアンの手は性器ですから。この後、キャロル宅でのピアノ前の場面や、キャロルがついにバスローブの帯をほどく場面において、「キャロルがテレーズの肩に手を置く」という動作が繰り返し描かれていくのは、絶対に偶然ではないでしょう。ハージの乱入などがなければこのふたりはおそらくもっと早く関係を持っていたに違いなく、だからやっぱり、ベッドシーンそのものが描かれるよりはるか前から「いつ、いつ、いつ?」と身悶えしてしまうわけですよ、いち観客としては。

ちなみにテレーズはテレーズで、旅の途中のロードサイド・レストランでキャロルと手を重ねて"You look wonderful."と言ってみたり、その後のとても大事な場面でもやはり手を重ねて殺し文句をつぶやいたりしてるしで、こちらも(たとえ無意識的にだとしても)性的なニュアンスを漂わせまくりなんですよね。それよりはるか前の、車の中でキャロルの唇や手に見とれて気もそぞろになるところにも濃厚な欲望の気配がありますし、それを言うならデパートのおもちゃ売り場でキャロルを見初めた瞬間にだって、欲望の萌芽はもうはっきり描かれていると思うんです。何よあの今にも中森明菜が「スローモーション」熱唱し始めそうなフォーリンラブの気配は。見ているこちらのゲイダー*2の針が一瞬で振り切れるあの視線の行く末に、セックスがないわけがないじゃないですかっ。

視線と"eye sex"

視線と言えば、出逢いの場面が中森明菜なら、初めてのランチの場面以降のキャロルとテレーズは工藤静香状態だとも言えましょう。言いたいことが(ランチの時点ではまだはっきりとは)言えなくても、「目と目で通じ合」う色っぽさに充ち満ちてますからね、このふたり。海外のレズビアン・フィクションのファンの間では以前から"eye sex"という言い回しがよく使われていて、これは主に「目と目を見交わしただけでセックスしたも同然のケミストリーが生じている状態」を指すのですが、それで言うなら『キャロル』は最初から最後まで徹底して主人公たちの"eye sex"を追いかけ続けた作品だとも言えます。あれだけ美しく計算されつくした画面でよくぞここまで、と何度観ても感心してしまいます。

この映画に関するインタビューなどではベッドシーンのことが妙に強調または注目されがちであるような気がするのですが、そしてベッドシーンでのケイト・ブランシェットの引き締まった背中の美しさも、絡みそのもののエロティシズムもすばらしいとは思うのですが、本作品でセクシュアルなのは決してそこだけじゃないと思います。むしろ、直接的な行為が何ひとつない場面でまでああまで官能的でありつづけるという離れ業こそがみごとなのよっ!

官能を脇から支えるもの

上で書いた「離れ業」を脇から手堅く支えている要素が、大きく分けてふたつあります。ひとつは音楽、特にビリー・ホリデイの"Easy Living"。もうひとつは、サブキャラまたはモブキャラとしてのニューヨークのレズビアンたち。

「テレーズの歌」こと"Easy Living"

"Easy Living"は原作にも「テレーズの歌」として登場する曲です。映画では小説よりも高い頻度でこの曲が使われ、テレーズがピアノで演奏したり、レコードをキャロルにプレゼントしたりしています。マッキンリー・モーテルでの化粧の場面で、レコードプレイヤーが奏でているのもこの曲。英語があまり得意ではないあたしには、最初の視聴では歌詞がなかなか聞き取れなかったのですが、さすがに3度も見た今なら断言できます。わざわざこの曲をピアノで弾いたり、その演奏を"beautiful"と褒めたり、レコードを繰り返しかけながらイチャイチャしたりするのって、ド直球の求愛表現だわ。

参考までに、英詞を載せているサイトを紹介しておきます。

なお、小説版の方の、柿沼瑛子さん訳による一部歌詞はこんな。

『……あなたのせいで……たぶんわたしはおかしくなってる……でも、それがいいの……あなたはわたしを思うがままにしていると人はいうわ……それが一番すてきなことだって、みんなはわかっていないのね……』

『……あなたに捧げた歳月を……後悔なんてしていない……恋をしていれば、喜んで捧げられるの……あなたのためならなんだってするわ……』

ビリー・ホリデイはバイセクシュアルだったと言われていることも、おそらく無関係ではないはず。というわけで、ふたりの気持ちの高まりは、視覚のみならず聴覚でもこれでもかというほど表現されていたんでした。

ちなみにこの曲以外でも、作中で使われているオールディーズの歌詞は、どれも恥ずかしいほどベタにふたりの恋の進み具合を示しています。この映画をごらんになる方は、できればあらかじめサントラをチェックして曲名と歌詞を予習しておくと、より深く作品世界を楽しめるかもしれません。どの曲もオンラインで試聴できますし、歌詞も検索すれば一瞬で見つかりますよ。

ニューヨークのレズビアン・カルチャー

時代設定が1952年だということで、この映画では当時の社会の同性愛に対する偏見もさりげなく描かれています。キャロルが受けさせられた転向治療("conversion therapy"、同性愛を『治す』という名目の精神療法。科学的なエビデンスはありません)や、リチャードによる「女学生の一時的なのぼせ」("schoolgirl crush")という形容などが、その代表。

しかしこの映画は、こうした偏見に対するカウンターとして、ニューヨークのしたたかなレズビアン・カルチャーを画面に登場させてもいます。もっともわかりやすいのはアビーというキャラクタですが、レコード店の片隅のレズビアンカップル(しかも片方は典型的なブッチ!)や、フィルのパーティーでテレーズに興味を持つジュヌヴィエーヴなども見逃すわけにはいきません。「社会がどうあろうと女性が好きな女性は存在して、恋をして、元気にやってたんだ、それは可能なことなんだ」というメッセージが、ここにはあると思います。

キャロルとテレーズのロマンティックな関係が、ありがちな「禁断」「背徳」路線にはまったく見えないことの背後には、こうした要所要所のカウンターがうまく機能しているということもあるのでは。偏見を描くだけ描いて何のフォローもせずに性愛描写に力を注いだ場合、ただの一山いくらのポルノかメロドラマができあがるだけですが、この映画は絶妙のバランス感覚でもってその陥穽を回避し切っていると思います。

まとめ

直接的なベッドシーン以外でも性的テンションがとにかく濃厚で、それでいて安っぽいポルノやメロドラマには絶対ならないという奇跡のような作品。使用曲や、作品内では名前の出て来ないちょっとしたレズビアンキャラにも注目して観ると、この奇跡をより深く味わうことができると思います。

蛇足

今回のエントリのアイキャッチ画像は、名古屋・伏見のミリオン座でもらった、2月20日以降の来場者特典ポストカードです。ミリオン座は小さい映画館であるだけに、こうやって客足を維持する工夫をしているみたい。

*1:映画『キャロル』鑑賞後、同作品のことを言ったり書いたり考えたりし続けてしまうこと。

*2:"gayder":直訳すれば「ゲイのレーダー」。つまり、同性愛者が持っていると言われる、お仲間を探知する能力のこと。