石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

オフビートで残酷なラブストーリー~映画『ヴィクとフロ 熊に会う』感想(ネタバレ)

VIC & FLO SAW A BEAR

振り返れば熊がいる、という話(パディントンではなくレヴェナント的な意味で)

Netflixで鑑賞。刑務所を仮出所した中年女性ヴィクは、同房で恋人だったフロを呼び寄せ、カナダの田舎で同居を試みる。しかしふたりの間には齟齬があり、やがて思わぬ悲劇が起きて……という話。一言で言うと「レズビアンが現実に追いつかれる話」だと自分は解釈しました。

いったい「熊」とは何なのか

早々にネタバレしてしまうと、この映画のタイトルの「熊」とは復讐のことです。フロに恨みを持っているあるキャラクタが、クマの毛皮を被ったディカプリオ(ほれ、『レヴェナント 蘇えりし者の』)のごとく、または背中に天秤のタトゥーを入れたデ・ニーロ(それ、『ケープ・フィアー』の)のごとく不吉にふたりをつけ狙い、ついには襲い掛かるんです。

ここで面白いのは、いったいフロが過去に何をしてそこまで恨みを買ったのかはついぞ説明されずじまいだということ。復讐の具体的アクションはかなりぞっとするもので、特に終盤のそれはちょっとしたひねりがある分余計に衝撃的なのですが、これが正当な仕返しなのかおそろしい逆恨みなのかもさっぱりわかりません。観客にできるのはただ、暴力が天災のように理不尽で、残酷で、避けようがないものとしてふたりに降りかかってくるのを見ていることだけ。

ヴィクとフロがそう清廉潔白でもない、けっこう不気味なところのある人間として描かれているところもポイントだと思います。ヴィクは終身刑の仮釈放で、フロは満期出所で娑婆に出てきたということになっているのですが、ふたりの罪状が何だったのかはこれまた示されていません。ヴィクはフロとの隠遁生活を始めるためにわりと平気で嘘もつくし、小屋にもともと住んでいた半身不随の叔父や、叔父の世話をしていた少年のことも、そう気遣っているようには見えません。そして、もともとレズビアンではないらしいフロの方は、ヴィクへの愛というより身の安全のためにこの田舎に来ており、ヴィクの目を盗んで町で男を漁っては一夜限りの情事を楽しんでいたりします。どう考えても、「罪のないレズビアンカップルが邪悪なものと対峙するサスペンス(またはホラー)映画」的な構造の物語ではありません。

それでもまだ「ヴィクはフロの過去に巻き込まれる立場であり、被害者である」と解釈してできないことはないと思うんですが、あたしはその解釈をとりません。というのは、あの残酷な結末こそが、ヴィクにとってはただひとつのハッピーエンドだったのだと思うから。「熊」は、つまり復讐者はヴィクと無関係のものではなく、ヴィクがこの田舎に引きこもることで逃げようとしていた現実を象徴するものだと思うからです。

ヴィクが逃げきれなかったもの

ヴィクが終身刑、フロが満期出所だという設定は、このふたりの性的指向の暗喩として機能していると思いました。ヴィクがおそらく一生女性を恋愛や性愛の対象とするレズビアンであるのに対し、フロはそうではないんです。実際、フロがこの田舎にやってきてからヴィクに隠れてひっかけている(あるいはひっかけようと狙っている)相手が男ばかりであるところを見ると、彼女はむしろ女より男の方が好きな人であるように見えます。決定的なのは、復讐者からの最初の襲撃のあと、小屋を出ていこうと考えたフロがヴィクに対して言うことばです。以下、字幕より引用します。

私は男も好き

別れるなんて言ってない ここがイヤなの 部屋を借りるわ 距離を置くの 変わることでいい結果を生むわよ

これ、女より男の方が好きな女が、レズビアンとの恋愛に飽きて穏便に別れようとするとき持ち出す典型的なクソ台詞ですよ。「男も好き」というのは「あなたではなく男『が』好きだからもう終わりだ」の婉曲表現、「別れるなんて言ってない」というのは騒がれないための大嘘、「距離を置く」とは「男漁りの間おまえは邪魔だから遠ざけておきたい、でも一応キープだけはしておいてやるから文句を言うな」の意、「いい結果」というのは「自分好みのチンコが首尾よく手に入り、一方その頃レズビアンの元恋人は都合よくあきらめてくれているという結果」という意味ですよ。ああ既視感がありすぎて泣ける。ちなみにここでフロが並べている別れの理由がことば通りのものではなく、ヴィクと別れて出ていくための方便であることは、直前の保護司との会話でもあきらかです。

だからといって、これを理由にフロが悪い人だと速断するわけにもいきません。これって肉好きな人が一生ヴィーガン・ベジタリアンの食生活をしようと思っても無理なのと同じで、遅かれ早かれこうなる組み合わせのふたりだったというだけのことだと思います。そりゃ、ヴィーガン食もある程度の間なら楽しく食べられるかもしれませんよ、アイスクリームもあればから揚げだってあるし。ましてや、「ミャンマーのお寺で一週間出家して菜食生活をする」みたいなそもそも肉が生活空間にない環境にあれば、菜食もそれなりに貫けるものでしょう。でも、お寺から出たあとも未来永劫焼き肉やステーキの誘惑に勝ち続けられるかというと、それはまた別の話。ヴィクはそういう現実から逃げようとしてこの田舎までやってきて、結局現実に追いつかれたということなのでは。

「追いつく」ということに関して言うと、町や川を通り抜けていく乗り物の描写がいちいち示唆的だと思いました。ヴィクとフロがこの田舎町で足に使っているのはおんぼろのゴルフカートで、しかも借り物です。速度も出ず、ハンドリングも不安定で、しょっちゅう道からはみ出す代物。かたや、彼女たちのそばをよぎっていく乗り物はまず四輪バギー、次にロードバイクに乗ったサイクリストの群れ、その次がモーターボート。どれもゴルフカートより速く移動できるもので、おまけにだんだん速度が上がっています。モーターボートが川を驀進していった後、ヴィクとフロはカートを持ち主に返さざるを得なくなるのですが、その後彼女らが保護司と3人で遊びに行く先は水族館と鉄道博物館。水槽から逃げられない魚たちと、もう動かない古びた機関車をとっくり眺めた後、上記の別れ話のシーンがやってくるという仕掛けになっています。その後ふたりが進もうとした小道をトラックが完全に塞いでいる場面は、この関係の文字通りのデッドエンドの現れです。現実がついにふたりに追いつき、牙をむいて襲い掛かる瞬間です。

だからこそあのエンディングだったのだと思いました。仮にヴィクがホラー映画のファイナル・ガールよろしく復讐者と戦って勝利をおさめたところで、あるいは助けを呼んで事態を収束させたところで、どのみちフロと末永く一緒に暮らすことはできなかったでしょう。ならば、フロがまだ来ない小屋で寂しがって泣いていたヴィクが、「私が守るよ」と言っていたあのヴィクがこれでよかったのだと思える結末は、あれ以外にはなかったということなのだと思います。エンドクレジットで流れる曲の歌詞からしても、これは犯罪サスペンスというより、奇妙で悲劇的なラブストーリーという位置づけの作品なのでは。

まとめ

クライム・サスペンス、メロドラマ、不条理劇などさまざまな読み方が可能な物語だと思いますが、自分はこれを残酷な(しかし愛ある結末を迎える)ラブストーリーだと受け止めました。閉塞的な環境で始まった恋を、同じような閉塞的な環境を作って保ち続けようとしても、現実はいつか熊のように噛みついてくるという話なのだと思います。アップリフティングなレズビアン映画をお探しの方にはまかり間違ってもお勧めできませんが、カナダの田舎の素朴な風景と、先が読めないストーリーを楽しみたい方には良い作品かと。

VIC & FLO SAW A BEAR

VIC & FLO SAW A BEAR