石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的備忘録。

はみ出し者たちへの水もしたたるラブレター~映画『シェイプ・オブ・ウォーター』感想

シェイプ・オブ・ウォーター(オリジナル・サウンドトラック)

未来はここにある

口のきけない女性とアマゾンで捕らえられた半魚人との、幻想的なラブロマンス。クィアなのは主人公の隣人のゲイだけじゃなかったわ。映画そのものが丸ごと、声なき非主流派への愛とシンパシーでみっちみちだったわ。60年代の物語だけれど、未来はここにある。

3つの"f"で読み解く『シェイプ・オブ・ウォーター』

このお話の舞台は冷戦時代のボルティモア。主人公の40代独身女性イライザ(サラ・ホーキンス)は、耳は聞こえるけれども口がきけず、政府の極秘研究施設で夜間清掃の仕事をして生計を立てています。その研究所に軍事利用のために拘束されている半魚人(ダグ・ジョーンズ)を見つけた彼女は、手話や音楽やダンスで「彼」と意思疎通し、ついに恋に落ちます。やがて「彼」に危機が迫り、イライザは隣人の画家ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)や同僚ゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と共に決死の救出作戦を敢行。そこにある偶然が加わって……。

「抑圧され意見を言う機会を奪われているものたちが、愛と信頼でつながること」の力と美しさをたたえる映画だと思いました。お話を読み解く鍵は、作中に出てくる3つの"f"だと、あたしは勝手に思っています。

一つ目の"f":"family"(家族)

最初のひとつは、字幕には出ていないんだけれど、"family"(家族)です。

イライザとともに半魚人を助けようとする隣人ジャイルズは、ミュージカルを愛する歳老いたゲイです。この映画の時代背景は1962年、つまりストーンウォールの反乱よりさらに7年前だと言えば、当時のゲイがどれだけ社会から冷遇されていたかはわかるでしょう。作中でジャイルズは、彼の性的指向に気づいたレストランの若い男性店員から、こんなことばを投げつけられています。

「もう来るなよ! ここは家族向けのレストランなんだ!」

"Don't come back here! This is a family restaurant!"

日本語字幕では「家族」ということばは出さずに「健全な店」と訳されていたと思います。けれど"family"って言ってるんです、原語では。そして"family"というのは、ゲイを「家族」の敵と位置付けて排除するために今も昔も便利に使われまくっている単語なんです。

ちょっと実例を挙げましょうか。メリーランド州のレストランは、店内でハグしたレズビアンカップルを、まさしく「ここは家族向けの場所だから」という理由で追い出してしまいました。ピッツバーグイングランドのレスターシャ州や、カナダのオンタリオ州でも同様の事件が報告されています。だいたい「アメリカン・ファミリー・アソシエーション(American Family Association)」を始め、反同性愛団体ってやたらと名前に"family"という語をつけたがるものなんですよ。「ファミリー・リサーチ・カウンシル(Family Research Council)」しかり、「ファミリー・リサーチ・インスティテュート(Family Research Institute)」しかり。誰が「家族」に入れるかはおれたち/わたしたちが決める、お前らはのけ者だというわけ。

では異性愛者が男女でつがいになってさえいれば「家族」枠に入れてもらえて排除されなくなるのか。そうではないことは、前述のウエイターの黒人夫婦に対する接し方を見ればよくわかります。そして、黒人女性ゼルダに対する夫の態度を見れば、夫婦の間ですら女であるだけで疎外と抑圧の対象とされてしまうことは一目瞭然。また別の場面では、実は白人(で、健常者で、リッチな異性愛者の)女性であっても結局夫から口を塞がれて沈黙を強いられるだけだということが描かれています。そんなこんなで、ここでウエイターが排除のために持ち出す"family"という語には、こうした入れ子になった抑圧構造がずっしりとまとわりついていると自分は思いました。メインカップルを「人の話は聞ける(聞かされる)けれども自分からは発話できない」という設定にしたのは、ふたりをこれらの声なき人々の象徴として描くためですよね。

ふたつめの"f":"future"(未来)

この作品のヴィランである軍人上がりのサディスト、ストリックランド(マイケル・シャノン)は、上記のウエイターが小躍りして店に迎え入れそうな完璧な白人家庭をかまえています。郊外のりっぱな家には従順なブロンド美人の妻とパパ大好きな子供たちがいて、車はピカピカのキャデラックという、そりゃもう強迫的なまでの徹底ぶりです。

このキャデラックを買うとき、ディーラーの男はストリックランドを、"the man of the future"(直訳すると『未来の男』)と呼んでほめちぎっています。この車の色はティール(カモの羽根のような濃い青緑色)で、作中の別のところに出てくる「緑は未来の色だ」という台詞とはっきり呼応していたりもします。しかしながら、未来が本当にストリックランドのような男のものなのかは、このキャデラックが迎える運命が暗示しているんでした。白人男性こそ神に近い存在と信じ、自らを神の士師(神から特別な恩恵と霊力を授かった指導者)だとしてマイノリティへの暴力を正当化する男、その実上位の白人男性から見捨てられることを死ぬほど恐れ、その恐怖からなお凶暴になる男は――または、そういうやりかたは――どこかで行き詰まるのだというのが、この映画の投げかけているメッセージです。

神についてもう少し話を続けると、街はずれの砂利の山の上でストリックランドがある人にあることをする場面、あれは「トマスの懐疑」の暗示なんじゃないかと自分は思いました。ストリックランドは神の名を口にするわりに、誰が神なのかはわかっていない人だったというわけで、そのことは結末でもう一度強調されています。だいたいが魚はキリスト教の暗喩だし、クライマックスで半魚人が見せる展開はイエスに起こったことと一緒だしで、多分に宗教的な映画ですよね、これ。聖トマスと違い、誠実さからではなく自らの傲慢によって神を見誤ったストリックランドには、やはり未来はないんです。

みっつめの"f":(あえて伏せます)

上記のストリックランドに主人公イライザがアメリカ手話の指文字で叩きつける捨て台詞こそが、本作品の要諦だと思いました。これは美しいラブロマンスでもある一方、アウトサイダーが傲慢な主流派たちにあの語を突き付けて宣戦布告するという、痛快な活劇でもあるんです。

その他

  • そこらじゅうで言われていることだけれど、映像と音楽のすばらしさといったら。最近ブラジルで非常に透明度の高い川があふれて近くの遊歩道がそっくり水没し、そこを水中カメラで撮ったというファンタジックな動画が話題になったでしょう。あれをフィクションの力で2時間にわたってやってみせたのが『シェイプ・オブ・ウォーター』かと。いや別に水中のシーンばっかりだというわけじゃないんですが。
  • イライザの性欲や自慰をごく日常的なものとして描く一方、半魚人との性愛はダンスや水滴の暗喩で示すというバランス感覚がよかったと思います。巷にあふれるこの逆のパターン(性欲がなく自慰すらしない『清楚な』女が男と出会ったとたんカメラの前で赤裸々な情交を演じ出す、みたいな)にはもうおなかいっぱいですから。
  • サスペンスの盛り上げ方もよかった。清掃員女性ふたりと年老いた画家のゲイvs政府の極秘機関じゃどうやっても前者に勝ち目はなさそうなんですが、そこに第3の勢力を加えることで先を読めなくし、意外な方向にドラマを転がしていくという仕掛けになってるんです。

まとめ

すべてのクィアとアウトサイダーを励まし、「未来はきみのものだ」と呼びかけるような映画だと思いました。声なき者同士が抑圧者とは違うやりかたで互いの間に橋を架ければ、未来はきみたちのものだよと。今だからこそ出てきた作品であり、美しさもサスペンスフルな部分もよく、ありていに言って大好き。