石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

『ある鰐の手記』(邱妙津[著]/垂水千恵[訳]、作品社)感想

台湾セクシュアル・マイノリティ文学[1]長篇小説――邱妙津『ある鰐の手記』 (台湾セクシュアル・マイノリティ文学 1)

台湾セクシュアル・マイノリティ文学[1]長篇小説――邱妙津『ある鰐の手記』 (台湾セクシュアル・マイノリティ文学 1)

台湾発の幻想的なレズビアン小説。ただし、かなりホモフォビック

台湾発のレズビアン小説です。大学生の同性愛者「拉子(ラーヅ)」(♀)を語り手とする思春期小説的な部分と、人間に追われる「鰐」が主役の寓話的な部分とをザッピングして見せながら、奇妙な味わいのエンディングへとなだれ込んでいくという構成になっています。暗喩に富んだ「鰐」の部分は幻想的で面白かったのですが、拉子の語りの部分は大げさすぎる同性愛嫌悪に満ち満ちていて、正直「古い」としか思えませんでした。訳文の日本語がぎくしゃくしていて、物語に没入しにくいところもマイナス。ただし、拉子の同性愛嫌悪が陰陽説に基づいた「タチフォビア」とでも呼ぶべきものであるところはユニークだし、物語全体が閉塞的かつ絶望的な小さな輪をなしているところも興味深かったです。

「鰐」の部分の面白さ

「鰐」の象徴するもの

メタフィクション的に随所に挿入される「鰐」の物語は、滑稽で残酷でやるせない一編の寓話となっています。のっけから「彼/彼女(性別がわからないので、鰐については今後このようにお伝えします)」(p. 59)と紹介されるこの「鰐」が、拉子を始めとする性的少数者のメタファーであることは疑いありません。それはたとえば「鰐」の発生について述べるこのような文章(pp. 221-222)からも明らかです。

出生から青春期に至るまでに、子供たちはだんだんに人類と異なり、鰐の外観を示すようになると調査は指摘していましたが、どこが異なるのかについてはほとんど説明がなされていませんでした。人々が同じように指摘するのは、十四歳になると鰐は自ら「人間型スーツ」を着て、家庭から逃げるということでした。鰐の発生原因の不明と、学者たちのアピールは、鰐の突然変異を防ぎようがないのなら、ますます社会を横行する鰐は増えていき、最終的には社会全体に鰐的生態の流行と不正常な遺伝を誘発するだろう、という社会心理を引き起こしました。

14歳。思春期ですね。LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス、クィアなどの性的少数者)が己の性的アイデンティティに気づき、ストレートのふりをして逃げ延びることを学び始めるお年頃です。「鰐」がレズビアンだけを象徴しているのか、それとも非ストレート全般やあるいは他の社会的マイノリティ集団をも暗示しているのかについては議論の分かれるところでしょうが、あたしはこの「十四歳」という年齢の記述があること、それから「鰐」自身や「鰐」が好きになる相手のジェンダーが固定されていないところから、「鰐」はやはりレズビアンだけでなく、性的少数者全般を指しているものと受け取りました。

「鰐」と人間たち

お話の中では、「鰐」は人間型スーツを着て人間のふりをして暮らしています。けれどもバイト先のパン屋の店長は「鰐」の情報を雑誌社に売ってしまうし、仲間に会いたくて出かけた「鰐クラブ」には罠が仕掛けられているしで、結局彼/彼女はひたすら逃避行を続けるしかありません。一方「鰐」探しに躍起になっている人間たちは、つまりマジョリティであるところのストレートたちはどうかと言うと、まずTV解説者は「鰐」についてこんな風に語っています(p. 82)。

我が国における鰐の生育実数および、我が国の鰐を保護または消滅させる新たなる方法は、高度な機密事項でありまして、他国政府に知られてはならないものです。(引用者中略)万一、我が国の鰐の状況が深刻な場合には、我々は国際社会から弾き出されてしまいます。(引用者中略)つまり、鰐に対する理解は爪の間のバクテリアにも及ばないほどなのですから、先進国の習慣に頼りましょう。あの歯で噛まれたら大変です。この度は全国民が団結して力を併せ、この未知の謎に立ち向かいましょう!

つまり、この寓話の中では「鰐」はその数も実態もわかっていないにもかかわらず国家にとってのスティグマであり、パターナリスティックに「保護か絶滅か」という文脈で語られる存在なわけです。おまけに「全国民」の中に入れてすらもらえない。これはまさに、マジョリティにいいように踏んづけられるセクマイの姿だわー。

ちなみに学者や「鰐絶滅行動連盟」の「鰐」に対する見解はこんな風(pp. 222-223)。

法学者は、我国の五千年の文明及び伝統と確固たる社会制度を守るために、労働法や財産法、婚姻法などを前もって修正しておくべきだと公言しました。鰐族の職業範囲を特定の観光およびサービス業に限定し、重税をかけることによって鰐によって社会資源を食われることを防止するとともに、鰐は人類とも、また鰐とも通婚することを禁じようというのです。

「鰐の生殖方法は、実際の性交によらず、卵を排出して人類の体内に侵入し、人類を鰐に『作り変える』、というものである。」

「鰐研究についてどんな論争があろうとも、鰐が純正な人類ではない、という点については疑うべくもありません。とにかく、我々マジョリティー、九九・九%の人間と違うということは、つまり不正常だということです。みなさん、みなさんは変態因子が社会に広まることに耐えられますか? 未来の我々の社会の人々がみんな鰐になってしまうことを望みますか?」

ホモセクシュアル・パニックに基づく現実のゲイ・バッシングを彷彿とさせますね。「変態は我々の目につかないところに隠れていろ」「同性婚? とんでもない」「同性愛が蔓延したら、正常な人までゲイになってしまう」「我々の子孫がみんな同性愛者になってしまったらどうするんだ」みたいな、非科学的きわまりないバッシング。あはははは。なお、この寓話では、「鰐保護組織」ですら以下のような意見(p. 224)を主張しています。

鰐の危害が大きくなりすぎて、警戒の必要が出てきたら、厳格に鰐の名簿を作り、鰐全部をどこか特定の観光地区に集めて生活させましょう。そうすれば、鰐を監視できるし、災害を拡大することも防止できます。また活きた標本として、人類が鰐の道に走るのを阻止することもできます。

シャレにならないことに、1980年代のエイズ・パニックのとき、アメリカに本当にこういう計画が存在したんだそうですよ。先日レビューした映画『トーチソング・トリロジー』のオーディオ・コメンタリーの中でハーヴェイ・ファイアスティンが語っていましたが、ゲイたちを島で生活させてエイズ拡大を阻止しようという話があったんだとか。ファイアスティンの言うとおり、異性愛者が考えそうなことだわ。こんなの保護でもなんでもなくて、「他者」とまなざす者に対する一方的な支配と抑圧でしかありません。

「鰐」の無邪気さの向こうにあるもの

ここですごく面白いのは、このように勝手にパニックに陥って鰐フォビアをつのらせる社会の中にありながら、「鰐」自身の言動はいじらしいほどに無邪気であること。この小説には村上春樹をはじめ日本の小説への言及がかなりたくさん出てくるのですが、「鰐」はまるでドーナッツをこりこりとかじる羊男のようにつつましく小確幸(小さな確実なる幸せ)を味わいながら生きています。だからこそ、「鰐」が自ら選び取ったショッキングな結末と、その直前に彼/彼女自身が投稿ビデオ「鰐の遺言」で明るく言ってのけるこの台詞(p. 265)とのコントラストが余計に怖いです。

「ハイ! お元気ですか。私は鰐です。たぶん私は唯一の正真正銘の鰐だと思います。

この一日が来るのをどんなに苦労して待ったでしょう! こんなにも熱心に私を探していただいて、もうしわけありません。私はみなさんがす……すごく好きです。

(引用者中略)あんなに熱心に探してくれたので、興味を削いでは悪いと思って、一生懸命我慢して隠れていました。でもすごく幸せでした!」

無邪気を通り越して、既にグロテスクの領域に達してますよこの台詞。思うに鰐の天真爛漫さは、それが彼/彼女の素だというわけではなくて、異端視されて追われる恐怖が一回りしてたどりついた危うい平衡点のようなものなんじゃないでしょうか。それは、たとえばパン屋の店長に情報を売られたときのこの言い回し(p. 94)にも表れていると思います。

店長のことを考えただけで、恐ろしさで皮膚が緑色になりそうです。

こんなことを言う一方で、実は別の部分(p. 265)では、「鰐」自身が「私の皮膚は子供の頃から緑色だった」と語っています。つまり、店長に脅えるまでもなく、「鰐」はとっくの昔に恐怖で緑色になり果てているのです。それを今さら「恐ろしさで~」と言ってみせるのは、悲しみと怒りをこめた一種の自虐的ジョークと解釈できます。この寓話の醍醐味は、このように一見コミカルで無邪気な表出の向こうに、「鰐」の、つまり性的少数者の抱えている絶望をさりげなく描き切ってみせたところにあるんじゃないかと思います。

拉子の物語の古臭さ、そしてタチフォビア

古臭く大仰な同性愛嫌悪

鰐の物語の面白さとはうらはらに、拉子の話は正直退屈だと感じました。彼女が内面化している古臭い同性愛嫌悪があまりにも大仰なので、読んでいて食傷してしまうんです。レズビアンの自分としては、たとえばこのへんのくだりを読んでいるだけでイライラしてきます。

私は一種の「有毒食物」の世界に生きている。自分と同類の女を愛するということは、「最低」のことなの。愛への自覚に目覚めて以来、今に至るまで、この「サ・イ・テ・イ」の四文字が私を苦痛で包み、一生背負うべき十字架になっている。
自分の愛欲にまかせて、女という「食物」を食べてしまったら、私は中毒を起こしてしまう。

私は思春期から大学時代の大半を、奇怪な性欲のプレッシャーと恐怖に苛まれながら過ごした。大丈夫。その種は体内にあるけれど、まだそれに手を触れてはいないし、蔓延させてもいない。まだ罪に染まってはいない。そうやって自分を慰めた。しかし、私はこうした恐怖を血肉に混ぜながら成長したのだ。自分の性欲に対して、限りない恐怖を抱えながら……そして恐怖の化け物と成り果ててからは、自分の本当の姿を人目に曝さないように、穴の中にこもってしまおうと決めたのだ。

ストーンウォールもゲイ・プライドも知らんのかこいつは!! いくら年代設定が多少昔(1987~1991年)だからと言って、このあまりにも古典的で大げさな同性愛嫌悪は一体何なの!? 「最低」だの「奇怪な」だの「恐怖の化け物」だの、全世界のレズビアンに喧嘩売ってんのかっ!!

ちなみに訳者である垂水千恵氏は「解説」で拉子の悩みを「レズビアンに『なる』ことへの原罪的恐怖」(p. 278)と称しておられますが、あたしはその解釈には疑問を覚えます。原罪というのは、アダムとイヴ以来の人類すべてが共通に負う罪でしょう。んな、レズビアン(に『なる』者)はいつでもどこでも全員悩んで当然だみたいな価値観の再生産、やめてよ。拉子のは、単なる「マジョリティの古臭い価値観を鵜呑みにしてしまった(あるいは、時代的/場所的な要因から、そうせざるを得なかった?)者の悲劇」でしかないわよ。そんなものを「灼熱する苦悩の美しさ」とか言って喜ぶ(解説p. 279)のは、「鰐」の情報をゴシップ的に取り沙汰して喜ぶ人間たちと変わりませんよまったく。

タチフォビアと陰陽説

ところで、この古めかしいヘイト満載の物語には、非常にユニークな点がひとつだけあります。それは、拉子が抱え込んでいるのは厳密に言えばホモフォビアではなく、陰陽説を下敷きにした「タチフォビア」であること。拉子がレズビアンと認定して忌み嫌うのは「陽」の存在であるタチだけであり、ネコは女性的な「陰」の存在だからOKってことになってるんですね、この人の脳内では。その発想は、たとえば拉子がかつての恋人水伶に当てた手紙のこの部分(pp. 141 - 142)に明らかです。

結局、あなたと私は違う。あなたはやはり社会が正常とハンコを押す女性。女性的な「陰」の愛で私を愛したけど、それは正常な男性にも向けることができるはず。基本的にあなたが他の女性と違うところは、包容力が大きいというだけ。私たちの関係で問題なのは私。私はあなたによって男性的な「陽」の気が剥き出しになってしまった。そうして人類の意識から異分子として放り出されてしまった。でもあなたまで放逐されることはない。あなたはまだもとの場所に戻ることができる。

要するに「股を開くのが女、女を抱くのが男」という異性愛男性ヘゲモニーをすっかり内面化した上で、「タチである自分だけが男性的で異常」と思い込むという救われない構図なんですが、そこにわざわざ陰陽説まで持ち込んで絶望するところがアジア的で面白いと感じました。レズビアン物のフィクションはだいぶ読んでるつもりですが、ここまで徹底してタチだけを嫌悪するという作品は初めてです。これは台湾の(それとも中国語文化圏の?)文化的土壌によるものなのか、それとも作者である邱妙津(チウ・ミアオチン)氏の個人的な価値観によるものなのか、ちょっと興味あります。

「鰐」と拉子との関係、そして閉じられた輪

「鰐」と「私」こと拉子の関係は、鰐クラブでの出来事によって暗示されています。

鰐クラブの一件で、「私」は人間用スーツを着て逃げています。「私」が人間であるのなら、スーツを着る必要はありません。けれども、「私」が鰐であるのなら、「私」と接している「鰐」が後日「唯一の正真正銘の鰐」と名乗るのは変です。この矛盾を解消する答えはたったひとつ。「私=鰐」です。

他には、「内容は鰐が、技術はジャーマンが提供することで小説を書くことを私に決心させたのです。再び卒業証書の記述から書き始めましょう…」(p. 147)という部分もまた、「私=鰐」であることを指し示しています。この『ある鰐の手記』そのものが、まさしく卒業証書の記述から始まる小説だからです。つまりこの小説は、拉子の物語内のメタフィクションとして挿入されていたはずの鰐の物語が、実は拉子の物語の始まりでもあるという閉じた輪を形成しているわけです。そのちんまりとした「どこへも行きつけなさ」具合が、すなわち私=鰐=拉子の絶望と諦念を表しているんじゃないかとあたしは思いました。そういったところは非常に面白かったですね。

訳文について

日本語訳がところどころ支離滅裂で、読むのに苦労しました。「彼女は私に罪を犯した」(p. 14)のような、日本語としてひっかかる文章が多すぎます。あたしが拉子の一人称語りになかなか没入できなかったのは、ひょっとしたらそうした読みにくさのせいもあるかも。中国語が堪能な方が原文で読めば、また違った印象を受ける作品であるのかもしれません。

まとめ

お話のメインである拉子の物語の部分はあまりにも古典的な同性愛嫌悪と性別二元論に塗り固められており、正直言ってとても現代小説とは思えない退屈さです。こんな古臭い苦悩を「原罪的」と称して当然視したり、ましてや「灼熱する苦悩の美しさ」などと美化したりされても困るってもんです。ただし、主人公のいわば「タチフォビア」とでも呼ぶべき発想に陰陽説の影響があるところは興味深いし、ザッピングで語られる「鰐」のお話の奇妙なユーモアと残酷なオチは大変面白く読めました。やるせなく閉じた物語構造も面白いです。訳文がかなり読みづらいこともあり、全体としては「マニア向け」だなあ、というのがあたしの出した結論です。