石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

『クシエルの矢(1〜3)』(ジャクリーン・ケアリー[著]/和爾桃子[訳]、早川書房)感想

クシエルの矢〈1〉八天使の王国 (ハヤカワ文庫FT)

クシエルの矢〈1〉八天使の王国 (ハヤカワ文庫FT)

クシエルの矢〈2〉蜘蛛たちの宮廷 (ハヤカワ文庫FT)

クシエルの矢〈2〉蜘蛛たちの宮廷 (ハヤカワ文庫FT)

クシエルの矢〈3〉森と狼の凍土 (ハヤカワ文庫FT)

クシエルの矢〈3〉森と狼の凍土 (ハヤカワ文庫FT)

痛みと官能に満ちた壮大な歴史絵巻

ローカス賞受賞の絢爛たる歴史ファンタジーです。何この面白さ!! これから読み始める人は、1巻から3巻までぶっ通しで読めるだけの時間を作ってからの方がいいです。序盤こそとっつきにくいものの、そこを過ぎればもうあなたは物語の虜。被虐を快楽に変える<アングィセット>に生まれついた主人公フェードル(♀)と、嗜虐を好む血を持つ貴族メリザンド(♀)との壮大な愛憎劇に首根っこをつかまれ、「最後まで読まなきゃ息もできない」状態に叩き込まれてしまいます。それでいて、ただの百合だの恋愛物だのという枠には絶対におさまらないんですよこの作品。権謀術数うずまく歴史物として最高に面白いし、ファンタジーとしての力強さ・壮大さはロバート・E・ハワードのコナン・サーガにも劣りません。また、的確な官能描写やキリスト教的価値観を反転させた性愛観は、誰にも真似できない吸引力にあふれています。キャラクタの、特にフェードルの魅力もよかったです。

フェードルについて

フェードルは官能の天使ナーマーに仕える神娼であり、懲罰の天使クシエルに選ばれた<アングィセット>でもあります。アングィセットとは苦痛を性的な悦楽として味わうように生まれついた伝説的な存在で、その見分け方は虹彩に血のしずくのような斑点があること。この斑点はクシエルの矢に射られたしるしとされており、タイトルはここに由来します。

苦痛嗜愛や神娼という要素があるからって、単なるお色気担当のか弱いヒロインだと思ってもらっちゃ困ります。フェードルの最大の武器は、磨き抜かれた知性と教養、そして「大の男を十人束にしたぐらいの度胸」(3巻p. 363)なんです。幼くして貴族デローネイに引き取られ、幅広い知識と俊敏な身体能力、「目のつけどころ、物の見方、考え方」(1巻p. 91)を徹底的に仕込まれた彼女だからこそ耐えられる壮絶な冒険が、この3冊にはぎっしりと詰まっています。これは筋肉と魔法だけのヒロイック・ファンタジーに対するアンチテーゼだ、とあたしは思いました。血まみれの剣戟も国をゆるがす政略ももちろん満載ながら、これはヒロインの知力と胆力と官能を鍵とする、まったく新しいファンタジー小説なんです。

あとね、名前が面白いですよね。「フェードル」とはギリシア語で言うところのパイドラ、つまりエウリピデスが『ヒッポリトス』の中で描いた、報われぬ恋に死ぬ女性の名前です。フランスではラシーヌがこれを下敷きにして『フェードル』という悲劇を書いています。作中で主人公の名が不吉なものとされているのは、たぶんここから来るのでしょう。

エウリピデスの『ヒッポリトス』では、悪いことは皆神様のせいでした。ラシーヌの『フェードル』では神は登場せず、人間の心のメカニズムを精密に追う物語となっています。ではこの『クシエルの矢』はどうかというと、フェードルの揺れ動く内面を丹念に描きつつ、クシエルに選ばれることの功罪にもたっぷりとスポットが当てられています。つまり、エウリピデス版ともラシーヌ版とも違う独自路線なわけです。ひとつだけわかっているのは、このフェードルはおそらく結末で死なないということだけ。作品全体が、「全てが終わってから、フェードルの1人称で回顧する」という形で描かれていますからね。この新しいフェードルが、今後どんな数奇な運命を迎えるのかわくわくします。

メリザンドについて

この人の魅力を何と言って伝えたらいいのでしょう。メリザンドはクシエルの末裔とされているシャーリゼ家の人間で、クシエル譲りの嗜虐性向を持っています。権謀術数の天才であり、フェードルにとっては激しい憎しみの対象であると同時に、どうしようもなく惹かれてしまう存在です。実際、どんな責めにもセーフワードを言わないフェードルをベッドで完璧に屈服させた(性的な意味で)(しかも、立て続けに2度も)(おそろしく色っぽいですよこの場面)のは、この人だけ。その姿を見るだけで、フェードルの膝を水のようにし、気を失うほど焦がれさせてしまうのも、この人だけです。

冒頭でも書きましたが、この物語、序盤はとてもとっつきにくいんですよ。大国の存亡をかけた歴史物だけに、固有名詞の数がすさまじく多いんです。どこの国の誰それがどうした、どこの血筋の誰それがこうした、という台詞の奔流に、頭の足りないわたくしなど何遍も脳みそがフリーズしかけました。そこを乗りこえてしまえば、お話は一瞬たりとも休まぬジェットコースター展開に突入するのですが、おびただしい数の国と血族と人物の陰謀と忠誠、愛と冒険を一気に堪能した後、最後になってあなたは気づくでしょう。

すべてがメリザンドの手のひらの上だと。

かえすがえすも恐ろしく、かつ蠱惑的なキャラクタです。これ以上詳しくは言いますまい。あとはぜひ、ご自分の目で確かめてください。

補足しておきますが

ここまで読んで勘違いした人がいるかもしれませんが、これは決して、「フェードルとメリザンドの1対1のロマンティック・ラブストーリー」じゃありませんよ。もう少しポリアモラスで、もっと激烈な物語なんです。また、いわゆる「同性愛小説」というジャンルともやや毛色を異にします。この世界では、性愛に対する観念が、現代社会とはまるで違うからです。で、そこがこの小説のもっとも面白いところだとあたしは思います。詳しくは後述。

『クシエルの矢』の世界観・性愛観について

本シリーズの舞台のモデルとなっているのは中世からルネサンス期のヨーロッパ。世界は文明国と半文明化された部族国家、未開の好戦的な部族国家、そして現実世界のアラブ圏やアジアにあたる異文化圏などから構成されています。フェードルが住むテールダンジュは、中でも1、2を争う文明国です。テールダンジュ文化圏の、

  • 教養と才覚があれば平民が貴族へと昇っていけるところ
  • ヘラスと呼ばれる古い国の文化がしばしば参照されるところ
  • キリストを思わせる伝説を持つ「聖エルーア様」とその天使が信仰されているところ

などは、まさしく17世紀あたりのヨーロッパそのもの。現実を型として鋳造されたこの骨太な世界設定だけでも手ごたえはじゅうぶんなのに、『クシエルの矢』には、さらにその上を行く面白さがあります。

この物語がユニークなのは、歴史上のヨーロッパとそっくりな枠組みを使いつつ、現実のそれとはまったく違う価値観を大胆に打ち出していくところです。聖エルーア信仰においては、愛の営みが神への捧げ物とされています。中でも、エルーアの天使ナーマーを信奉するものにとっては、神娼として客と寝ることが「ナーマー様へのご奉仕」として尊ばれているほどです。ちなみにこの世界では、人は異性のみならず同性とも自由に体をかわし、誰もそれを特別視しません。また苦痛嗜愛も、そして複数の相手と関係することも、タブーではありません。テールダンジュでの性のタブーは、「愛のない/同意にもとづかない行為」であり、愛ある官能そのものはエルーア様のご意志にかなうものとして大いに推奨されているのです。

これは現実のヨーロッパにおける価値観の真反対を行く考え方だと思います。ルネサンス以前のキリスト教会は、神への愛(アガペー)だけをよしとし、男女の愛(エロス)がまず認められていませんでした。ヨーロッパで男女の愛が美徳の源泉とされ始めたのは、ルネサンス期に古代ギリシャのプラトン哲学が本格的に研究され、新プラトン主義が生まれてからです。プラトンは肉体蔑視の立場をとり、「男性同士の魂の交わりは、男女の肉の交わりより上」としていたのですが、キリスト教徒にとっては同性愛は異端。そこで、プラトン哲学とキリスト教の融合をはかって生まれたのが、「男女(男性同士のではなく)の間の魂の交わりこそが崇高」という新しい考え方です。肉の交わりは相変わらず蔑視されています。これが現代までに至るヨーロッパの恋愛観の根幹をなしています。

このような背景を鑑みると、『クシエルの矢』は、「もしヨーロッパの恋愛観・性愛観が今と逆だったら?」という壮大なイフ(IF)小説として読むことができます。もしプラトンが肉体の交わりを称揚していたら? もしキリスト教会が愛をジェンダーで切り分けず、エロスを全肯定していたら? 作品を読めばわかりますが、とてつもなくスリリングで、刺激的な思考実験ですよ、これは。読み進めるほどに、エルーア様の教えを軽視するキャラクタ、つまり現実のこの世界にも山ほどいそうな「性を野卑なものとみなす人」「同意のない行為を強要する人」たちが、とてつもない蛮族に思えてきます。また、個人的には、同性同士(男性同士も、女性同士も)の愛や性がたっぷりと描かれるにもかかわらず「同性愛」という単語が一度も出てこないところに感動したりしました。蔑視していないから、名前をつけていちいち区別する必要がないんですよ。この風通しのよさが、たまらなく好きです。

その他いろいろ

  • フェードルとメリザンド以外のキャラも皆魅力的です。だからこそ余計に、苛烈な展開に心臓をつかまれっぱなしです。
  • 官能描写はもう満点をつけたい感じ。淡泊な筆致ながら、行間を読ませる力がすばらしいと思います。
  • 全部読み終わってからもう一度読み返すと、「ここにこんな伏線があったのか!」と唸らされっぱなしです。プロットの精緻さにかけては、サラ・ウォーターズの小説にも一歩もひけをとらないものがあると思います。

備考:「クシエルの伝説」シリーズについて

この『クシエルの矢』から始まる「クシエルの伝説」(Kushiel's Legacy)シリーズは、2010年3月現在で以下の計9冊が刊行されている模様。

  • Kushiel's Dart (2001)
  • Kushiel's Chosen (2002)
  • Kushiel's Avatar (2003)
  • Kushiel's Scion (2006)
  • Kushiel's Justice (2008)
  • Kushiel's Mercy (2009)
  • Naamah's Kiss (2009)
  • Naamah’s Curse (June, 2010)
  • Naamah's Blessing (June, 2011)

日本ではそれぞれの巻を3分冊で出版するということで、『クシエルの矢(1~3)』は、原著『Kushiel's
Dart』1冊分に相当します。日本語版は現在、原著第2巻にあたる『Kushiel's Chosen』が『クシエルの使徒(1)深紅の衣』『クシエルの使徒(2)白鳥の女王』として3分の2まで出たところです。そちらもおいおい読んでレビューするつもりです。

まとめ

こんなに血湧き肉躍る小説を久しぶりに読んだ、と思いました。感動のあまりものすごく長いレビューになってしまったので、結論は10字以内でまとめます。「本屋に走れ、今すぐ」。以上。