バイブルベルト出身のキリスト教根本主義者の異性愛者男性が、ゲイのふりをして1年間生活し通したらどうなるか。これを実践したティモシー・クレク(Timothy Kurek)さんが、この経験についてTEDxで非常に興味深いプレゼンをしています。
詳細は以下。
プレゼンはこちら。自動生成の英語字幕がかなり正確なので、リスニングが苦手な方でもわかりやすいかと。
ティモシーさんは米国テネシー州ナッシュビルの、たいへん信心深い福音主義キリスト教徒の家庭出身です。どれぐらい信心深いかというと、両親が公教育を信じず、ティモシーさんが7年生になるまで学校に行かせずに自宅学習させていたぐらい。ティモシーさん自身も敬虔なクリスチャンだったのですが、20歳ぐらいの頃、女友達のリジーさんから「両親にレズビアンだとカミングアウトしたら絶縁された」と打ち明けられたことがきっかけで、彼の中に変化が起こります。リジーさんは泣いていたのに、そんな彼女を慰めるより先に、ティモシーさんの中でこんな声が聞こえたんですって。
彼女を正し、治さなければ。同性愛を非難するためにいつも教えられてきた、聖書の6節を分かち合わねば。
it was my job to straighten her out to fix her, it was my job to share those six passages in the Bible that I had always been taught to condemn homosexuality。
でも、聖書には互いを愛せと書いてあるはず。友達への愛より先に脳裏に浮かんでくるこんな声が、イエスの声であるはずがない。そう思ったティモシーさんは、この「声」を断ち切るため、リジーさんの立場に立ってみようと思いつきます。それで本当に友達や家族や教会の人たちに自分はゲイだと話し、1年間オープンリー・ゲイとして生活し通しちゃったんですよこの人。
周囲の皆さんの反応、すごかったらしいです。リジーさんのように家から追い出されたりはしなかったものの、「コミュニティーの大多数はぼくに対して扉を閉ざした。まるでぼくが死にでもしたかのようだった」とのこと。
その一方でティモシーさんは、積極的にLGBTの人びとに加わっていきます。同性愛者のソフトボールチームに入ったり、ゲイ書店のカフェで働いたり。で、このカフェの隣にあったLGBTセンターが、彼の価値観にコペルニクス的転回をもたらすことになるんでした。
ティモシーさんがある日そのLGBTセンターの近くを歩いていると、カラオケの音が聞こえてきたんだそうです。なんだか聞き覚えのある曲で、中に入ってみると、「若き日のバーバラ・ブッシュみたいな」格好の女装男性が"Our God is an awesome God"というキリスト教の歌を歌っているではありませんか。神をたたえる歌はその後何曲も続き、近くにいたゲイ男性に聞いてみると「ぼくら、日曜日には一緒に教会に行ってるよ」との説明が。
それまでのティモシーさんは、キリスト教徒と同性愛者はまったく相容れないものだと信じていたのだそうです。自分が間違っていたばかりか、「自分と隣人を分断する、悪意に満ちた無知なステレオタイプを信じていた」ことに彼は衝撃を受けます。
それまでのぼくの人生の「ノーマル(正常/標準/常態)」が、まったく異なるコミュニティーの「ノーマル」と向かい合っていた。
the "normal" of my past life confronting the same "normal" in a completely different community.
その瞬間、ぼくはまた、自分にとっての「ノーマル」と他の人たちにとっての「ノーマル」はさして違いはしないのだと悟り、これを最後に自分の中の偏見や敵対感情に打ち勝たねばならないと気づいた。
I realized as well in that moment that my "normal" and other people's "normals"are not all that different and that once and for all I needed to conquer my prejudice and bigotry there.
今日では、この「ノーマル」のとらえかたは、決してティモシーさんひとりだけのものではないと思います。そうでなければ、同性愛が主要な要素を占めるドラマが『ノーマル・ハート』や『ザ・ニュー・ノーマル』なんていうタイトルで発表されたり、ましてや高い評価を受けたり*1するはずがありません。あれらのタイトルはつまり、両作品のディレクターでオープンリー・ゲイのライアン・マーフィーからの「現代の『ノーマル』とはこうだ」「同性愛者もまたノーマルなのだ」という一種のメッセージであり、それを受け入れる土壌が現代社会には既にあるわけ。バイブルベルトのど真ん中で狂信的なホモフォーブとして育った(本人談)ティモシーさんが、実体験を経て結局これと同様の「ノーマル」観を持つに至ったという事実は、まことに興味深いです。
さて、ティモシーさんの話でもっとも面白いのは、実はここからさらに先。上記のように偏見を捨てようと決意した彼は、その後また新しい偏見に悩まされることになります。なんと、キリスト教徒への偏見です。ナッシュビルのメガチャーチに足を踏み入れたとたんに全身の毛が逆立ち、ホモフォビアから身を守ろうと身構えてしまった彼は、こんな風に自省します。「ティム、おまえは偏見を克服していない。偏見を、ひとつの集団から他の集団へと移し替えただけだ」。
つまりティモシーさんがこのプレゼンで究極的に訴えようとしているのは、「同性愛者の身になって考えてあげましょう」でも「キリスト教のホモフォビア許すまじ」でもなく、「レッテル貼りはいかん」ということなんですね。これ、宗教や性的指向を問わず、どんな人にも共通して言えることなのでは。ちなみに、ティモシーさんにゲイだと言われて苦しみつつも愛を注いでくれたお母さんは、息子の1年間の「オープンリー・ゲイ」生活の終わり頃、こんなことを言ったのだそうです。
ティム、お母さんはサタンが「偽りの父*2」だとはもう思ってないわ。サタンは「レッテルの父」だと思うの。
Tim, I don't just think that Satan is the father of lies anymore. I think he is the father of labels.
ティモシーさんだけでなく、お母さんもまたこの1年間で変わられたんですね。
この動画を見た後、ティモシーさんがこの1年間の偽装ゲイ体験についてまとめた著書The Cross in the Closetをkindleで買って、今着々と読み進めているところです。こちらはいわばこのプレゼンの拡大版で、プレゼン以上に緻密かつ赤裸々。「狂信的なキリスト教徒はああだ、こうだ」とついレッテルを貼ってしまいがちな同性愛者のひとりとして、ティモシーさんがこの勇気ある経験を余すところなく公開してくれたことに、今とても感謝しています。