終わりよければすべてよし。納得の最終シーズン
違法な実験で生み出されたクローン姉妹たちが互いを見出し、共に戦い、自由をつかみ取るSFドラマの最終シーズン。広げた風呂敷が魔法のように畳まれ、物語は驚きの大団円へと着地していきます。レズビアンキャラの活躍もよかったし、言うことなし。
レズビアン・コシマの見せ場
以前からクィアな描写が多い本作品ですが、このシーズン5には、クローン姉妹のひとりで同性愛者のコシマ(タチアナ・マズラニー)がシリーズ全体のテーマを象徴する名場面が出てきます。言うならばそれは、「レズビアンVS家父長制」。「ひょっとしたらコシマを同性愛者という設定にしたのは、このクィアな反逆のためだったのかも」と思ってしまうぐらい印象的なシーンでした。
コシマは好奇心と反骨精神あふれる米国人の科学者です。シーズン5の冒頭では、彼女は170年生きていると言われるミステリアスな科学者P. T. ウエストモアランド*1(スティーヴン・マクハティ)が孤島に作った家父長制的疑似家族形態の遺伝子研究コミューンで囚われの身になっています。コシマの恋人で、これまで山あり谷ありの付き合いだったデルフィーヌ(エヴリンヌ・ブロシュ)もまた、さる事情からこの島に滞在中。
ウエストモアランドはコシマをはじめとするクローン姉妹をつくり出した組織「ネオリューション」の黒幕で、この島で神のように崇められ、コミューンの住人たちの細胞や血液や、命までをも自分を利するモノとして使用しています。彼がクローン姉妹の腹の子や生殖機能に執着するところは映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のイモータン・ジョー的ですし、子供の血を使って若さを保ち、供給が立たれると俄然弱り始めたりするところなどはちょっと吸血鬼っぽくもあります。よろず古色蒼然たるものを好むウエストモアランドは、デルフィーヌとコシマを自邸での晩餐会に招いた際、衣装部屋に揃えてあるヴィクトリア朝ふうドレスに着替えるよう要求し、コシマはそこである思い切った行動に踏み切ります。
コシマが選んだのは、ドレスではなく男物の黒いタキシード。さらにデルフィーヌには白いウエディングドレスを着せ、手をつないでディナーの席に現れるんです。
つまりコシマはここで、権威ある老人がすべて支配していたはずの席をレズビアン・ウエディングの場に読み替えることでその場の規範をひっくり返し、ドラマ全体の持つ「家父長制への反逆」というテーマをしれっと体現しているわけ。老獪なヴィランたるウエストモアランドがこれだけで引き下がるはずもなく、コシマは即座に嫌味たっぷりにやり返されてしまうのですが、それを割り引いてもじゅうぶんおつりがくるぐらいあざやかで忘れられないシーンでした。
ちなみにこの回(S5E5)には他にコシマとデルフィーヌのぶつかり合いもあれば、フラッシュバックをうまく使ったロマンティックなラブシーンもたっぷり出て来ます。レズビアン要素を目当てにこのドラマを追ってきた人ならいろんな意味で必見のエピソードです。
クローンたちの旅と連帯
「シーズン1から4までの伏線を拾いに拾いながら、よくもここまで……!」と驚くぐらい、個々のクローンたちの過去や内面が掘り下げられているシーズンでした。興味深いのは、それぞれのキャラの見せ場となる回に、「自分の影の部分との対峙」という共通点があること。そして、多くは自分以外のクローンの中に「これまで否定してきた自分」や「ありえたかもしれない自分」を見出し、姉妹(またはファミリー)同士の連帯の中で少しずつ自分自身と和解していくということ。『オーファン・ブラック』は謎につぐ謎と流血のアクションがぎっしり詰め込まれたドラマですが、その中でももっともスリリングなのは、実はこのクローン姉妹たちの内面の旅ではないかと思いました。
この内面の旅という切り口が最大限に生かされているのがシーズン・フィナーレ、つまりS5E10のクライマックスと大団円です。この回ではクローンのサラとヘレナ(両方タチアナ・マズラニー)が絶体絶命の危機に陥り、ラスボス相手に激しい戦いを繰り広げるんですが――なんと、お話のクライマックスはそこじゃないのよ。一応言っておくと、今シーズンでは血みどろの暴力シーンの配置がよく考えられていて、衝撃的な描写は狙いすました場所でこそドンと出てくるようになっています。この第10話でのラスボス戦もそのひとつで、第2話でバイオテクノロジー企業ダイアドの「掃除屋」フェルディナンド(ジェイムズ・フレイン)があることをする場面、そして第7話でレイチェル(タチアナ・マズラニー)がワイングラスの脚を折った次の場面とともに「シーズン5の3大残虐シーン」と呼びたいぐらいのド迫力でした。それだけ強烈な最終戦すら一種の前座扱いで、その後に真の山場が用意されているのは、主人公たちを究極的に救うのは「敵を殺すこと」ではないから。姉妹を、ファミリーを、仲間を見つけて連帯しながらそれぞれの旅を続けていくことこそが、このタフな世界でのサバイバルの鍵だからです。
2017年12月1日現在、シーズン5は日本ではまだ放送も配信もされていないので*2、最終回の実に後半3分の2の時間を費やして描かれるクライマックスと大団円について、言い換えるなら姉妹たちの旅の終わりについてくわしく言及することは避けます。「予想外で、力強くて、しかもベス・チャイルズ(タチアナ・マズラニー)の死で始まったシーズン1と対をなす、大正解の終わり方だった」とだけ、ここでは書いておきます。
タチアナ・マズラニーの魔法
『オーファン・ブラック』の呼び物のひとつは、主役のタチアナ・マズラニーがひとりで演じ分けている複数のクローンたち(通称クローン・クラブ)が同じ場所で相互交流するという、魔法のような場面です。代表的なのが、シーズン2の通称「クローン・ダンス・パーティー」のシーン。以下、該当場面と、BBCアメリカによるメイキング映像をどうぞ。
子供と男性の役以外は全部タチアナが演じているのだと何度自分に言い聞かせても脳が混乱する、このシュールな光景。いくらなんでもこれを超える魔法はもうないだろうと思っていたのですが、さすがに最終シーズンは一味違いました。たくさんのクローンが一堂に会する場面はもちろん、「3分半も続く長回しで、顔が同じで性格もしゃべり方も違うクローン同士があわただしく会話しながら衣装やウィッグを交換し、互いが互いになりすます」なんていう、撮影技術的にも演技の上でもアクロバティックな場面まであるんです。
物語を最後まで見通して思ったのは、これらのマジカルな映像は視覚的な新奇さやおもしろさを提供するだけでなく、視聴者の認知を揺さぶって「自己同一性とは何か」という哲学的な問いを脳裏に浮かべさせる役割も果たしているのだということ。そしてそれは、第1シーズン第1話で出てきた「私は誰?」という疑問に直結しているのだということ。「私」とは誰か。人なのか、モノなのか、ただの遺伝子なのか。優秀なのか、役立たずなのか、それとも恐ろしい人殺しなのか。どこから来てどこに行くのか。その答えは常に他者とのかかわりの中に見出されるのだということを、これらのシーンは暗示しているのだと思います。
その他
- コメディリリーフとしても善と悪とを自由に行き来するトリックスターとしても優秀なアリソン(タチアナ・マズラニー)とドニー(クリスチャン・ブルーン)のヘンドリクス夫妻は、今回も最高でした。ふたりのデュエットによる"Ain't No Mountain High Enough"は、クローン・クラブ全員のテーマソングと言っても過言ではないはず。
- 長くて複雑な話であるだけに、細かな粗も多少あることはあります。たとえばサラの娘、キラがいまいち何考えてるのかわからないとか、動かし切れないキャラが都合よく外国に飛びすぎだとか、そのあたり。でもメインプロットのパワーがすごすぎるので、自分としてはあまり気になりませんでした。いいんだよシェイクスピアだってけっこうご都合主義だったんだから。
まとめ
すべての謎が第1シーズン冒頭の「私は誰?」という問いに向かって収束し、驚きのクライマックスと綿密な大団円がその答えを指し示すという、よく考えて組み立てられたシーズンでした。シーズン3あたりの迷走を見ていた時点では「これでいったいどうやって風呂敷をたたむのか」と不安にも思ったのに、ここまでみごとにパズルが完成するとは。「女がだれかの所有物ではない『私』を取り戻し、自分で選び取ったファミリー(それは必ずしも遺伝子や婚姻によるものとは限らないし、友人もまたファミリー)とケアし合いながら進んで行く」という現代的テーマがぐっとくるし、オチも新鮮だし、アクションも迫力満点で、つくづくおもしろいドラマだったと思います。キャラたちのこんなに見ごたえのある旅をありがとうクローン・クラブ、ありがとう『オーファン・ブラック』。日本語圏にも早くこの面白さが届くよう、Netflix Japanは一刻も早くシーズン5を配信すべき(現在シーズン1~4のみ配信中です)。
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