石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

『同性愛と異性愛』(風間孝&河口和也、岩波新書)感想

同性愛と異性愛 (岩波新書)

日本のホモフォビアの諸相を読み解く力作

エイズ・パニック、府中青年の家宿泊拒否事件、新木場事件などを題材に、日本社会における同性愛をめぐる状況についてまとめた良書。世界と日本のホモフォビアの歴史を振り返り、日本は同性愛に「寛容」との俗説に一石を投じる部分も必読。

日本にはゲイ差別はない? またまたご冗談を

この新書では、主に1980年代以降の日本で同性愛をめぐって起きたいくつかの事件・訴訟の詳細が取り上げられています。いちレズビアンの自分の目から見てさえ「概要は知っていたが、この事実は知らなかった」という情報が数多くあり、勉強になりました。

エイズ・パニックとゲイのスケープゴート化

薬害エイズを隠蔽するため、厚生省(当時)が男性同性愛者を「日本のエイズ第1号患者」に仕立て上げたというところまでは知ってたんですよ、あたし。でも、当時の報道や厚生省の動きが具体的にどうなっていたのかまでは、本書を読むまで知りませんでした。

この本によれば、朝日新聞は1985年3月21日、「『日本にも真正エイズ』という見出しで、血友病患者がエイズですでに死亡していることを報道していた」とのこと。ところがその翌日、厚生省は急に、男性同性愛者を我が国の「エイズ1号患者」として認定。そのさらに翌日、つまり3月23日の朝日新聞では、この「1号患者」が米国在住の芸術家で、一時帰国中にエイズと診断されたこと、彼が米国で同居していた男性が既にエイズで死亡していることなどがさっそく報じられたのだそうです。

わずか3日の間にこんなことが起こっていただなんて。

ご存知の通り、それから30年たった今でも日本には「エイズは同性愛者の病気」という誤解・偏見が根強く残っています。先日の渋谷で撒かれた反同性婚チラシでは「(同性パートナーシップ条例を認めると)エイズが蔓延する」などと書き立てられていたと聞きますし、異性愛者が「自分はゲイじゃないから」と検査を受けずにいて、合併症を起こして初めて感染に気づく「いきなりエイズ」が多いのもこの国の特徴。その発端が、この3日間の情報の錯綜(しかも意図的な)にあったとは。

余談になりますが、最近漫画『境界のないセカイ』の連載打ち切りで性的マイノリティがスケープゴートにされたことに自分が危惧をおぼえたのは、こうした前例があったからです。不満や憎悪をそらすために誰かに責任転嫁する側にとっては一瞬のことでも、転嫁された側がスティグマを払拭するには長い長い時間がかかるんですよ。

府中青年の家宿泊拒否事件

1990年2月、東京の同性愛者団体「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」が東京府中青年の家での勉強会合宿時に他団体から嫌がらせを受けるという事件がありました。青年の家はその後、同性愛者の宿泊は「青少年に有害」であるとして、5月に予約を入れていたアカーの宿泊利用を拒否。アカーは都を相手に裁判を起こし、第1審でも第2審でも勝訴しました。都は上告せず、東京高裁判決が確定しています。

自分はこの裁判について、雑誌やミニコミ、『同性愛者たち』(井田真木子、文藝春秋)などを通じてだいたいの経緯は把握していました。しかし、どんな団体からどのような嫌がらせがあり、青年の家や東京都が具体的にいかなる言い回しでアカーの排除を正当化しようとしたのかまで知り得たのはこの本のおかげ。とにかく詳しいんですよ記述が。

この本に引用されている青年の家所長の意見や、教育長コメント、都の準備書面などは、陳腐なアンチゲイ意見の見本市とも言うべき様相を呈しています。「同性愛=同性間セックス」という偏見、「同性愛は青少年を混乱させる」論およびそれを根拠とした被害者と加害者のすり替え、「今日の日本国民のコンセンサス」を持ち出しての排除正当化等々、読んでいてムカムカしてくる一方で、あまりの既視感につい笑い出しそうにもなりました。この手の主張は現在でもよく見かけるものですが、知識やリサーチの十分でない方々による「ぼくのかんがえた、どうせいあいしゃをはいじょしていいりゆう」って、時代を問わず似てくるんですかねえ。

これらの主張ひとつひとつに対する批判や分析は本書を読んでいただくとして、個人的にもっとも感銘を受けたのは、1996年の高裁判決文(出典:『判例タイムズ』986号)です。以下に引用し、特に印象的だったところを強調してみました。

平成二[一九九〇]年当時は、一般国民も行政当局も、同性愛ないし同性愛者については無関心であって、正確な知識もなかったものと考えられる。しかし、一般国民はともかくとして、都教育委員会を含む行政当局としては、その職務を行うについて、少数者である同性愛者をも視野に入れた、肌理の細かな配慮が必要であり、同性愛者の権利、利益に十分に擁護することが要請されているものというべきであって、無関心であったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである。

おそらく今後も、たとえば同性婚の是非を問う議論などで、この裁判の被告側が開陳したような「ぼくのかんがえた、どうせいあいしゃをはいじょしていいりゆう」を真顔で唱える人が続々と現れることでしょう。今後はそうした意見のほとんどに対し、「司法判断はこうです」とこの判決文を示すだけで説明の手間がかなり省けるかも?

新木場「ホモ狩り」殺人事件

2000年2月10日、東京都のJR新木場駅近くの夢の島公園で、30代男性が7人の少年らから蹴られ、踏みつけられ、さらに直径10cm弱の丸太で何度も殴打されて死に至るという事件がありました。俗に言う「新木場事件」です。この公園はゲイのハッテンバとして知られており、加害少年らは以前から「ホモ狩り」と称して同性愛者への暴力行使や金品強奪を繰り返していました。

この事件は当時、ゲイやレズビアンの間でずいぶん話題になったのですが、なぜか2015年現在、事件の存在自体を知らない人がいっぱいいるんですね。不思議に思っていたのですが、この本のおかげで理由がわかりました。箇条書きにすると、こんな。

  • メディアはこの事件をホモフォビアとの関連で報じなかった
    • テレビや新聞の多くは、同性愛者を狙った事件であることに触れず、「おやじ狩り」「ホームレス狩り」の延長で報じた
    • 同性愛者を狙った事件と報じたメディア(主に雑誌)もあったが、被害者の「その種の趣味」や「性的嗜好」を詮索するばかりで、事件の動機や背景は掘り下げなかった
  • 法廷でも「同性愛者」という語の使用は避けられ、この事件がヘイトクライムであることには触れられなかった

これじゃ、知らない人がいてあたりまえだよ……!

「報道でも法廷でもヘイトクライムだとしていないのなら、ヘイトクライムではなかったのだ」なんて言わせませんよ。本書によれば、加害者たちは以下のように供述しているんですから。

ボコボコにして襲い、金を巻き上げても相手はホモなので、警察に届けを出せばホモがばれる弱みがあるので、警察に被害届を出さないからやりやすい、と言うので、今まで何回か夢の島公園でホモ狩りを続けていたのです」(成人加害者の供述調書、二〇〇〇年二月二九日)

「こいつはホモで人間のクズだ、変態野郎だ」(一五歳少年の供述調書、二〇〇〇年二月二九日)

「ホモ連中は人間のクズでウザイ連中だ。そんな連中はどうなってもかまわない」(同、二〇〇〇年年三月一日)

「私は相手がホモなのでムカついていました。ムカつくというのは、頭に来るという意味ですが、男と男で変な事をしている自体、ムカついていたのでした」(同、二〇〇〇年年三月六日)

これらの供述から、襲撃の理由の少なくとも一部はホモフォビアにあったことが窺えます。にもかかわらず大半の報道でそのことが伏せられたのは、被害者や遺族のプライバシーへの配慮だったのではないかと本書は指摘しています。うなずける意見ではありますが、その配慮によって日本社会のホモフォビアが「なかったこと」にされてしまったという事実を見過ごすわけにはいきません。

この本によれば日本の公園などでの同性愛者をターゲットとした襲撃事件はこの1件だけではなく、アカーの1999年の電話相談では被害や目撃談が34件あったそうです。東京以外の場所でも類似の報告はあるとのこと。その一方でこうした実態が世に知られず、「日本では外国と違ってゲイが直接暴力をふるわれることはありません☆」というお花畑な意見がまかり通っているという現状に、言いようのないやりきれなさを覚えました。新木場事件は風化させてはならず、知らない人にはぜひ本書を読んでみてほしいと思います。

「男色(衆道)があったから日本は同性愛に寛容」?

結論から言うとこれはウソなんですね。このあたりは、第3章「歴史のなかのホモフォビア」に詳しいです。ざっと要約すると、こんな感じ。

  • 「男色」は成人した男性(能動的な役割)と年下の男性(受動的な役割)の関係を表すもので、現代の同性愛とは別物
  • 江戸時代には御定書で、明治時代には鶏姦条例/鶏姦罪で男色を禁じる試みもあった
  • 1910年代以降、西洋での同性愛の病理化と「男=能動、女=受動」という男女観により、日本でも同性同士の性的行為が「変態」「異常」とみなされるように
  • その後も同性愛の倒錯扱いが進み、広辞苑では第2版(1969年)から「変態性欲の1種」と説明されるようになる(1991年の第4版からこの記述は削除)

この章では西洋におけるホモフォビアの歴史にも触れられており、ソドミー法による同性愛の犯罪化→「先天的なものだから懲罰はやめよう」という視点からの病理化→「病気だから『治療』または『根絶』すべし」という発想から来る抑圧と暴力という流れがたいへんわかりやすく解説されています。日本の場合、犯罪化こそ一時期にとどまったものの、病理化はしっかりされていたわけで、実際現在でも同性愛を「変態」「異常」「病気」とみなす人は山ほどいますよね。新木場事件の被害者が暴行死させられたのも、結局はこの「同性愛=変態」という発想が原因なわけで、それのどこが寛容だよと改めて思いました。

その他

性同一性障害の医療化の問題を異性愛主義*1とからめて論じた第5章も興味深かったです。結局のところ、LGBTの生きづらさの根源はこの異性愛主義から来ているのかも。

まとめ

日本社会における「同性愛」の歴史的変遷について知るのに最良の1冊。さくさく読めて情報豊富で、よくあるアンチゲイ意見への反論を磨くための参考書としてもすぐれた本だと思います。ストーンウォールの反乱やマシュー・シェパードについて語るのもいいけど、やはり自分の住むこの国で何が起こったのか/起こっているのかを知っておくことは重要だと思うので、この本を買って本当によかったです。

同性愛と異性愛 (岩波新書)

同性愛と異性愛 (岩波新書)

*1:本書における異性愛主義の定義は、「異性愛が唯一の正しくて自然な性のあり方であるという考え」(p. 52)。