石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的備忘録。

フレディすごい、クイーンすごい、でも映画としてはすごくない~映画『ボヘミアン・ラプソディ』感想

Bohemian Rhapsody (The Original Soundtrack)

うっかり感動しそうにはなるんだけど……

ザンジバル出身の英歌手、フレディ・マーキュリーの伝記映画。感想は、「フレディすごい、クイーンすごい」「役者陣のそっくりさん具合もすごい」「でも映画としては空疎」でした。楽曲が良すぎてうっかり感動しそうになるけど、よく見ると脚本に粗があり、セクシュアリティ描写も雑。

フレディすごい、クイーンすごい、そっくりさん具合もすごい

フレディ・マーキュリー(1946-91)は英国のロックシンガー。アフリカのザンジバルに生まれ、英国に移住したのち1970年にロックグループ「クイーン」を結成。4オクターブをカバーする歌唱力でリードボーカリストをつとめ、一世を風靡しました。彼はゲイまたはバイセクシュアルで、1991年にAIDSによる肺炎のため亡くなりました。

自分はクイーン世代のど真ん中ではなく、それより後の世代です。基礎教養がないため、あたしの中ではベストヒットUSAとMTV以前の音楽的世界は滝になってごうごう落ちています。生きてるフレディ・マーキュリーの姿や言動はTVや雑誌でこそ見ていましたが、フレディなりクイーンなりのレコード(今風に言えば『ヴァイナル』?)を買ったりコンサートに行ったりしたことはありません。楽曲としての"Bohemian Rhapsody"や"Somebody To Love"は、『Glee』で初めて「これ、クイーンの曲だったのか!」と学習したぐらい。

にもかかわらず、映画『ボヘミアン・ラプソディ』鑑賞直後の感想が、一緒に見に行った熱血洋楽好き女ふたり(ふたりともクイーンの来日コンサートに行ってる)とまったく同じだったのが面白いと思いました。その感想というのは、以下の3点。

  • 惜しい人を亡くした
  • クイーンは偉大だった
  • 役者さんが皆そっくりだった

主演のラミ・マレックの演技は、フレディがいかにかっこよくてセクシーで型破りなアーティストだったかを力強く伝えてくれるものだったと思います。特にライブエイドでの動きや目の表情など、もはや鬼気迫るほどのイタコ芸っぷりでした。楽曲もみな、イントロが流れたとたんに全身の血液がざわっと沸き立つような名曲ばかりだったし、メンバーがユニークな取り組みで音を作っていく過程も面白く、これは要するにそれだけ実際のクイーンが偉かったってことなのだと思います。ラミ・マレック以外の役者陣に関しても、あたしが「クイーンの人、みんな似てたね」と言えば洋楽好きふたりは「ボブ・ゲルドフまでそっくりだった、すごい」と返すという具合で、とにかく全員ホンモノによく似せてあったという結論でよろしいかと。

でも映画としてはスカスカ

我に返って楽曲の感動や「そっくりですげえ」という驚きを割り引いて考えてみると、この映画、随分脚本が弱くね?

まず、リップシンクで作られた映画なのに、クイーンがBBCのTV番組出演の際リップシンクを嫌がっていたことを示すエピソードをわざわざ入れた意味がわかりません。この番組の映像を見たことがある人は多いらしいから、ファンサービスとして「みんなが知ってるあの時の話」をやりたかったのかもしれませんが、それは果たして映画全体の存在意義を揺るがしてまですべきことだったんでしょうか。映画のクライマックスたるライブエイドの場面で、フレディはラジオへの愛と郷愁をつづった"Radio Ga Ga"を歌ってるんだから、ラジオ出演のエピソードでも別によかったんじゃないの。

フレディのセクシュアリティの描き方もあんまりだと思いました。「ゲイは妻子が持てないから家族を作れず孤独である」とか、「不特定多数とすぐセックスしちゃうのは悪いゲイ(だから騙されたり、HIVを移されたりする)」とか、「出会ってすぐ寝ず、時間をかけて1対1の関係を作るゲイは良いゲイ(だから家族的なつながりが持てて、幸せになれる)」とか、ヘテロ好みのくっそ古いステレオタイプを芸もなく(本っ当に何の芸もなく!)ただなぞっているだけじゃないですか。いや、こうした家族主義やモノガミー規範や、HIV感染を不道徳への天罰扱いする考え方は、この映画の舞台である70〜80年代に実際にゲイを抑圧していたものですから、それらが話の中に出てくること自体は問題ないとは思うんですよ。この映画がよくないのは、それらの価値観を現代の視点から洗い直したり、疑義をさしはさんだりする部分がひとつもないということ。これじゃ大昔の有害なステレオタイプをただのんべんだらりと再生産しているだけです。

また、話の後半をフレディの死因(AIDSによる肺炎)にフォーカスしたメロドラマに仕立て上げるために、時系列がいじくってあるところもいただけないと思いました。もうあちこちで指摘されていることだけれど、フレディがAIDSと診断されたのは1987年で、ライブエイド(1985年)より後だったはずでしょ? そこを書き換えて、彼がライブエイド前に自分がAIDSだと知っていたことにするっていうのは、要するに彼がライブエイドの楽曲の数々を死にゆく自分の歌として歌っていたということにして、観客が「かわいちょうに、かわいちょうに」とより気持ち良く彼の死を消費できるようにするための算段でしょ?

もうね、映画後半を見ている間じゅう、キャトリン・モランのエッセイ『女になる方法 ―ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記―』(北村紗衣訳、青土社)の中で、ゲイ男性のチャーリーが著者のキャトリンに言ってたこのセリフ(p. 149)が頭の中をぐるぐる回って止まりませんでしたよ。

つまりさ、考えてみてよ、ほとんどの映画もテレビ番組も、女とかゲイとかは一人くらいしかいなくて、他のとこはストレートの男ばっかり出てきて、ストレートの男が台本を書いてるでしょ? 小説とか映画とかはそういう架空のゲイ男性やストレート女性ばっかりで、僕らに言ってほしいなーとストレートの男が想像しているようなことを言って、してほしいなーとストレートの男が想像してることをするんだよ。僕が見たゲイの男には全部、エイズで死にかけてる元彼がいるよ。ったく、『フィラデルフィア』のバカめ。

とりあえず監督のブライアン・シンガー*1が脚本のアンソニー・マッカーテン*2と組んで、フレディ・マーキュリーというスーパースターに、

  1. ストレートの観客(で、整合性より自分のノスタルジーや感傷重視で、ゲイやHIV/AIDSについての考え方がせいぜい90年代初頭ぐらいで*3止まってる人)が言ってほしいなーと想像しているようなことを言わせ
  2. ストレートの観客(で、以下同上)がしてほしいなーと想像してることをやらせる

…という方針を貫きまくった結果出来上がったのが映画『ボヘミアン・ラプソディ』なんだと思います。つまりラミ・マレックがフレディのイタコをしてるだけじゃなく、この作品の中のフレディというキャラクターが、そもそもストレートの観客のイタコとして作られているわけ。

興行的には当たってるらしいから、商売としてはこれはたいへん賢明な判断だったのでしょう。でもその判断がこの映画をして名作にしたかといえば、180度逆だと思います。楽曲の迫力と、フレディとクイーンのそもそもの魅力で押し切っているからうっかり感動しそうになるけれど、話の構造はただの「ノンケ好みの陳腐な『ゲイの悲劇』〜懐かしソングを添えて〜」じゃん。もしも歌のシーンだけ全部ミュートして観てみたら、びっくりするほど空疎なお話なんじゃないですか、これ。

ライブエイドがあんなにお金を集めたのに、難民問題は今でも片付いていません。移民も、フレディが「パキ」と呼ばれていた時代同様蔑視されています。それと同じで、クイーン世代のゲイに対する考え方も、おそらくたいして変化してないのだと思いました。そこに目をつけてニーズ通りのお話を皿に乗っけて差し出してみせたクリエイターたちはほんとに商売上手だけど、あたしはただただ悲しいよ。

まとめ

非ヘテロのアーティストの伝記映画という点では『恋するリベラーチェ』の方が、そして故人そっくりの歌いっぷりを披露するイタコ芸という点では清水ミチコの忌野清志郎のモノマネの方がこの映画よりよっぽど上だと思います。どちらも故人への敬意があり、亡くなったアーティストをお涙頂戴のための鋳型にはめ込んだりしていないから。『ボヘミアン・ラプソディ』は、映画館の大画面と音響を通じてクイーンの音楽を知り(このプロセスに関してはもうほんとに楽しかった、この為だけに観に行っても元が取れてお釣りがくるぐらい楽しかった)、そこから実際のフレディとクイーンの偉大さをうかがい知るためには良い作品だけれど、それ以上のものではないと自分は思いました。とりあえずあたしゃこれから、Amazon Music Unlimitedでクイーンの曲を聴きまくるわ。フレディがノンケのおもちゃにされていないところで、安心してじっくり彼の音楽と向き合いたいんだよ。

*1:自分はバイセクシュアルまたはゲイだと言っている人です。参考:Bryan Singer Opens Up About His Sexuality, Ellen Page's Coming Out and Russia's Anti-Gay Law | Hollywood Reporter

*2:彼の性的指向や私生活は公表されていない模様。ゲイではないとする説あり

*3:『フィラデルフィア』は1993年の作品です。