石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

『深爪』(中山可穂、新潮社)感想

深爪 (新潮文庫)

深爪 (新潮文庫)

胸に痛いレズビアン小説

ずっしり重くて胸に痛いレズビアン小説。重くて痛い話であるからこそ、最後に示される静かな「赦し」が闇夜にさしこむ光のごとく輝いているのですが、そこに至るまでがもう、心臓をわしづかみにされてぎゅうぎゅう握り締められているかのごとき苦しさでした。

『深爪』のリアル感について

ごく簡単に言ってしまえば、この『深爪』は不倫の話です。「子どものいる既婚女性『吹雪』が独身レズビアンの『なつめ』と恋をし、泥沼に陥り、結局他の女に走って離婚する」という話の骨組み自体は、実はただの「どこにでもある現実」のひとつに過ぎません。それなのにこの小説が鮮烈な人間ドラマとして機能しているのは、ありがちな骨組みの上におそろしくリアリスティックな肉付けがされているからだと思います。特に、3章構成の第1章をなつめ視点、第2章を吹雪視点、第3章を吹雪の夫マツキヨの視点で描くという構成が、その「リアルさ」を浮き彫りにするのに大きな役割を果たしていると思います。

不自由をしたくないのは、自分ではないのか。旦那と同じだけ稼げるようになったら離婚してあげる。彼女はそう言っているのだ。

という第1章のなつめの怒りも、

「じゃあ親権は彼にあげればいい」
この無神経な発言はあたしをムッとさせた。これだから子供を産んだことのない女はいやなのだ。

という第2章の吹雪の苛立ち具合も、

妻は母親業に疲れ果てて、息抜きがしたくて、外に恋人を作ったのだろう。嵐くんのママでもなく、松本さんの奥さんでもなく、松本先生でもない、ただのひとりの女に戻りたかったのかもしれない。今回のことは、たまたまブレーキをかけそこなって、本来の自分に戻る道しるべを見失ってしまっただけなのだ。

という第3章のマツキヨの優しい誤解(ほんっっとにいい人なんですよマツキヨ)も、「あるある! こういうこと言う人も、こういうことを考えてしまうシチュエーションも、女性同士の恋愛にはつきものよー!!」と血涙を流して叫んでしまいそうなほどに現実的でした。

なつめも吹雪もマツキヨも、それぞれ現実に生きるたくさんの人間と同じぐらいどこか愚かで身勝手で、不器用で、それでも一途に大事な人を愛しているんですよね。そこがいとおしくて、でもやっぱり見ているとリアルすぎて苦しくなって、心臓を握りつぶされそうになるのでした。途中で「こんなつらいもんを最後まで一気に読み通すなんて、あたしはマゾか?」と真剣に考えたぐらいです。

マツキヨについて

3人のメインキャラクタの中で、このお話の鍵を握っているのはマツキヨだと思います。そして、もっとも魅力的なのもマツキヨだとあたしは思いました。「寝取られ男」の立場でありながらマチズモにもヘテロセクシズムにも走らず、一風変わった方向で救いと赦しを見出していく彼の姿には、一種の神々しさすら感じます。彼が主役をつとめる第3章で描かれるのは「家族の解体と再生」なのですが、そこで思考停止して既成のイズム(セクシズムとか結婚至上主義とか異性愛至上主義とか)に頼るのではなく、ひとりで静かに「生きること」と「愛すること」をとらえなおしていく彼の姿は、ほんとうに感動的です。こういう男性となら結婚してもよかったかもなあ、とレズビアンのあたしが一瞬思ったぐらい。

ノンケの人にわかるの?

ところでひとつ大きな疑問があるんです。この小説、果たしてノンケの人にどこまでわかるの?

いみじくも作者様ご本人が、「あとがき」の中でこう書いておられます。

切った爪がおまえを恋しがる

某女流作家と酒場で懇談する機会があったとき、この自由律俳句の意味を解説したら、びっくり仰天されたことがある。
「ひえーっ、あれにはそんなすごい意味があったんですか! そんなにエッチな句だったなんて、全然わかりませんでした。ビアンの道というのは、実に奥深いものですね。うーん、勉強になりました!」
(引用者中略)確かに小説の中でなつめが言っているように、この句の本当の意味はビアンの人でないとわからないかもしれない。ここでその解説をするほどわたしは野暮ではないので、興味のある方は実地に体験して体で理解していただきたいと思う。男女の恋愛では垣間見ることのできない光と闇が、そこにはひろがっている。それを知らずに死んでしまうのはあまりにももったいないことである。

ノンケさんの全てがこの句の意味がわからないとはあたしは思いません。でも、この『深爪』という小説には、「男女の恋愛では垣間見ることのできない光と闇」が確実にあると思います。それもちょっと他に例を見ないぐらい色濃く。そこがどれぐらいノンケさんに伝わるのか、ちょっと興味ありますね。

まとめ

リアルで重くて読んでいてつらいところもたくさんあるけれど、最後にマツキヨが見出す愛と赦しは必見。まるでパンドラの箱の中の「希望」を見たようだ、と、最後のページを読んで思いました。