石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

割れ目ばっかり映すレズビアンポルノが退屈なわけ - 『スージー・ブライトのレズビアン作法』(スージー・ブライト、第三書館)感想

スージー・ブライトのレズビアン作法

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バウンド [DVD]

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「でも、ほら、もっと、先いくものはいくらでもあるものよ!」

多くの男たちがセックス映画を作る場合、女性の性的快楽を示そうとして、彼女の割れ目にレンズの焦点を合わせようとする。

多分、それが、彼らの興味をそそるからだろう。でも、ほら、もっと、先いくものはいくらでもあるものよ!

と書いているのはスージー・ブライト。映画『バウンド』のコーキーとヴァイオレットのセックスシーンの監修をしたレズビアンの人です。彼女の著書『スージー・ブライトのレズビアン作法』の、『バウンド』のセックスシーンについてのくだりに登場する上記の文章(p. 221)に、わが意を得たりと深くうなずいてしまいました。映画に限らず、男が作った百合エロ/レズエロって、割れ目の描写にばっかり夢中になっててつっまんねーものが多い*1んだもん。それって、「俺様は割れ目に興奮する」という男の信仰告白というかオナニーショーであって、全然女同士のエロティシズムなんかじゃないんだもん。

『バウンド』のセックスシーンのポイントは、「腹」と「手」

スージー・ブライトによる『バウンド』のセックスシーンについての話を、もう少し長く(pp. 220 - 222)引用してみます。

私の胸の内には二つの重要な考えがあった。一つは、多くのハリウッドレズビアンもののシナリオとは違ってこの映画はオーラルセックスを仄めかしてはならない――その行為は私たちが目にするキャラクターにどうしてもやって欲しいものではないのだから。

『バウンド』は、誰かを速やかに理解し、こうした女性たちが互いにファックし合うものだということを確信させるという筋書きだ。

挿入行為は、私たちが仄めかして欲しいものだった。

しかも、確かに私たちはショッピング・モール向きの婦人科または、ハードコア映画をうまくやろうとしているわけではなかった。

あなたも私も、ごまんとあるハリウッド異性愛映画とくれば、ただちにイメージするのは男女の恋人同士の性交場面だということを知っている――『ここより永遠に』に始まってマイケル・ダグラスのごく最近のものまでの何にしても。

では、レズビアンの『性交』をどう仄めかしたらいいのだろうか?
私のアイデアは――キャシーの映画の名場面から盗み取ったのだが――私たちのは、ぴんと伸ばしたり引き締めたりしている女性の脚を映して見せ、それから、恋人の前腕が女性の腿の間にある場面を見せるというものだった。
しばらくの間、その腕にとどめて、しっかりとカメラが見つめながら、ファッキングのリズムで動きを一定に保ちつつ前後に動かす。

それから、彼女の腕が恋人のプッシーに至るまでの全行程を追う代わりに、小さな蝶が羽ばたいているような彼女の胃のあたりに場面を切り替え、それによって、オーガズムに痙攣していることを皆に気づかせたかった。
私は女性のエロチシズムを表すのに、その腹をクローズアップさせるというアイデアが気に入っていた。
多くの男たちがセックス映画を作る場合、女性の性的快楽を示そうとして、彼女の割れ目にレンズの焦点を合わせようとする。

多分、それが、彼らの興味をそそるからだろう。でも、ほら、もっと、先いくものはいくらでもあるものよ!
別の肝心なアイデアはというと、互いにいちゃつきあったり愛の行為をしている時は、いつでも女性の手をエロティックに見せるべきなのだ。

「レズビアンの手は彼女のペニスであり、それらは映画で勃起するので見る者は目で追いかけたくなるのです」
とあたかもベテランポルノグラファーででもあるかのように話した。
「スクリーンでコーキーの両手を見た時、これが私の中に入ったらどんな感じがするだろうと想像してみたくなったものです。それは、人に見せたくない性器の写真の象徴的表現の代用なのです」

すんごく納得。確かに、ヴァイオレットの愛撫に震えるコーキーのおなかは美しくも官能的だったし、バカみたいに股間ばっかり映さなくたって明らかに指でいかせてるとわかる描写も新鮮だったもんなあ。初めて『バウンド』を観た時には、「従来の男性目線のレズビアンポルノと全然違う!」と感動したものですが、その陰にはこうした配慮があったのですね。

割れ目に執着するレズビアンポルノ=単なる「ヘテロ男性のセクシュアリティ発表会」

このエントリの冒頭にも書いたんですが、割れ目にばっかり夢中な百合エロ/レズビアンエロ描写って、結局「俺達男性は割れ目に興奮します」という、ヘテロ男性のセクシュアリティ発表会でしかないわけですよ。「ショッピングモールの婦人科」みたいにひたすら大股開きで膣に器具を挿入したりとかいうのも、そう。あと、「多くのハリウッドレズビアンもの」にあるような妙なオーラルセックス偏重っていうのも、結局はきわめて男性的なペニス信仰の裏返しなんじゃないかと思います。ほら、「挿入はペニスの仕事に決まってる→女同士はファックしない、あるいは、できないはずだ!」みたいな*2。バッカみたい。手は何のためについてると思ってんのよ。チンコはただの棒だけど、指はショパンでもモーツァルトでも弾きこなすぐらい器用なのよ!

そんでですね、いちレズビアンとしては「なんで女同士のエロシーンで、わざわざそういう『俺達ノンケ男性の興奮するもの発表会』やら『俺達ノンケ男性のペニス信仰布教会』みたいなものを見せつけられなきゃいかんのか」と思うわけですよ。そんな描き方じゃ、いくら画面上で女同士が絡んでても、女性対女性のエロティシズムなんてかけらもないじゃん。単に女体をふたつ使って延々と“男性の官能”を描いてるだけじゃん! そんなもんが見たけりゃ、最初からゲイポルノでも男女ポルノでも見るっつーの。これまでいろんな百合エロ/レズビアンエロ作品を見ながら時々「なんか違う」と思っていた違和感の正体はこれだったのか、と激しく納得した次第です。

まとめ

  • 割れ目ばっかり映すレズビアンポルノが退屈なのは、それが女同士の欲情や快感ではなく、「俺達ヘテロ男性の欲情」ばかりを表現しているから。つまり、単に女体をふたつ使って男性の官能を描いているだけだから。
  • 女性同士のエロティシズムを表現するには、男性目線の割れ目偏愛とペニス信仰を超えた、「もっと先行くもの」が必要。

*1:全部がそうだとは言いませんよ。念のため。

*2:あと処女信仰もあるのかも。「膜はいずれペニスで破られるべきものだから大事に取っておかねば」みたいな。ばーかばーか。