- 作者: ジャネットウィンターソン,岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2011/09/08
- メディア: 新書
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しなやかで鮮烈な成長物語
レズビアンの作家ジャネット・ウィンターソンによる半自伝的小説。孤児として生まれ、狂信的キリスト教徒の養母から徹底した宗教教育を受けて育つも、15歳で同性との恋に落ちて家から放り出されてしまった少女「ジャネット」の物語です。つまりこれは実話にもとづく成長譚であり、サバイバル小説でもあるわけ。特異な環境にありつつもみずみずしい感性を失わない主人公の姿が、たまらなくよかった。これがデビュー作なんて、どんなバケモンだよジャネット・ウィンターソン……!
この作品でなによりも胸を打つのは、同性との関係が周囲にばれ、教会で糾弾されたときのジャネットのこの台詞です。
「清い者にとってはすべてが清いと、聖パウロは言いました」わたしは牧師に向かって叫んだ。「汚れているのはあなたたちのほうよ!」
ジャネットは、支配的な母親から将来伝道師となるよう期待され、洗脳に近い特殊教育をほどこされて育った少女です。10代にして説教壇に立ち、学校では業火で焼かれる罪人の刺繍を作って周囲から浮きまくり、教会こそが自分の家族と信じていた少女。その彼女が突然女の子と恋に落ちたとき、日本の百合ものでおなじみの「こんなこと、許されないのに……!」みたいな罪悪感パターンに陥らず、上記のような台詞を言い放つというところが、読んでいて大変爽快でした。とまどいや混乱こそあれ、それを圧倒的に上まわる恋の歓喜と幸福の力で、彼女は自分の想いをきっぱり肯定しているんです。以下、名場面をいくつか抜き出してみます。
「これって“自然にそむく欲望”だと思う?」わたしはメラニーに訊いたことがある。
「でも、すこしもそんな感じがしないもの。とても醜い、嫌な感じのものだってフィンチ牧師はおっしゃってたわ」。その通りだとわたしも思った。
賛美歌が終わると、わたしはメラニーにいっそう寄り添い、主のことを思った。(そうだわ)とわたしは思った。(メラニーは主からの贈り物だもの。彼女を愛さないということは、主の恩にそむくことなんだ。)
牧師はわたしのほうに向き直った。
「彼女を愛しています」
「では、主は愛していないのだね?」
「いいえ、両方とも愛しています」
「そんなことはできない」
「できます、できるんです、放して!」
もちろん、こういう風に考えることができたのは、ジャネットのたぐいまれな知性あってのことだったのかもしれません。でも、それと同じぐらい、恋そのものが持つパワーというのも見落としてはならないと思います。
「モラル(と称して刷り込まれたもの)>恋愛感情」状態でひたすら「こんなのダメ」とくねくねモジモジしていられるようなら、そんなの恋とは呼べないと思うんですよ。お仕着せの価値観を根底からひっくり返すだけの陶酔とよろこびをもたらすもの、それが恋愛ってやつだからです。え、それじゃ「禁断の恋」が描けない? ちょっと待って、まさか『ロミオとジュリエット』や『トリスタンとイズー』を読んでないの?
はたしてロミオとジュリエットは、「にっくきあの家の者に恋するなんて……こんなの、だめだよね? いけないよね?」とぐちぐち悩み続けてから、終盤でようやく「愛に家系なんて関係ない!」とか言い出したんでしょうか。ちがいます。舞踏会で出会ったその日の晩に、ロミオはもうもうジュリエットにこんなことを言ってます(以下、『『ロミオとジュリエット』(ウィリアム・シェイクスピア[著]/小田島雄志[訳]、白水社)より引用)。
ロミオ「恋の軽い翼でこの塀は飛びこえました、
石垣などでどうして恋をしめ出せましょう。
恋がなしうることならどんな危険も恋はおかすもの、
この家のものがどうしてぼくを妨げられましょう。」
キャピュレット家に忍び込んでるのがバレたら殺されるかもしれないのに、これですよ。かたやジュリエットの方も、こんなことになってます。
ジュリエット「私の敵といっても、それはあなたのお名前だけ。
(引用者中略)
名前ってなに? バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま。」
どうよ、この言い切り。つまりはロミオにしろジュリエットにしろ、「恋の歓喜>>>>>>>>>>それまで正しいと思っていたモラル」、なんです。それまでの価値観をかなぐり捨てさせるほどの陶酔と高揚、それが恋です。
じゃ、トリスタンとイズーはどうか。彼らは「伯父のかたきに恋するなんて……気持ち悪いよね?」とか、「王妃を寝取るなんて、許されないよね? 告白したら嫌われちゃうよね?」とか延々言ってたでしょうか。ちがいます。恋に落ちた直後、「はやまったことをしてくださいますな」と泣く侍女ブランジァンを尻目に、ふたりはこんなことをしています(以下、トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)『トリスタン・イズー物語』(ベディエ[編]/佐藤輝夫[訳]、岩波書店)より引用)。
恋人はいだきあった。美しい肉体のなかでは欲求と生命とが波うっていた。トリスタンはいった。
「さらば、死よ、きたれ!」
こうして、陽が落ちると、マルクの領土をさして、飛ぶように、前にもましていっそう速く走ってゆく船の上で、永久に結ばれた二人の恋人は、愛にすべてを棄てて互いに身をまかせてしまった。
これが恋ってものでしょう。すくなくともシェイクスピアやベディエはそう書き、書いたものは数百年(ベディエの方は百年ちょっとですが、もともとのケルトのお話はもっと古いです)の時を越えて生き残った。これらの作品が、多くの人をして共感せしめるものを持っているからです。
「それは異性同士の恋愛だけの話で、同性同士だとまた違うはず」と思う人もいるのでしょうが、おそらく、そういう人は同性相手の目もくらむような恋ってやつをしたことがないんでしょう。お気の毒にとは思うけど、そんな貧弱な経験値しか持たない人に、「同性同士の愛とはああだ、こうだ」などと断定的に語らないでいただきたいものです。「同性愛者が異性愛規範に痛めつけられて恋愛感情を抑圧する姿を見るのが好き」という個人的な好みは尊重されてしかるべきかもしれませんが、せめて、それはラブストーリーを楽しむというより「コップの中に作らせたアリの巣に熱湯をかけてうふふと笑う」という行為に近いものだと自覚なさってくださらないものかと思います。
えーと何だっけ、そう、『オレンジだけが果物じゃない』がすばらしい小説だって話。長くなるので以下簡潔にまとめると、初恋部分のほかには、
- 一種悲惨な状況を飄々としたユーモアで切り抜けるたくましさ、しなやかさ
- 『ノリーのおわらない物語』(ニコルソン・ベイカー、白水社)を思わせるような、子どもらしい感性の描写
- 寓話や伝説を通して現実を読み直し、語り直すという独特の手法
- 「映画化してくれ!」と思うほど鮮烈なイメージの数々(BBCがドラマ化してますけど、重要なシーンがいくつかカットされてるみたいなんです)
が、しびれるほどよかったです。ちなみにこのお話に登場するレズビアンは、主人公とメラニーだけじゃないですよ。レズビアンキャラはほかにも複数いて、恋人と同居していたり、クロゼットにこもっていたり、なりゆきでセックスしたり、自分らしく暮らすために遠くまで逃げてみたりしています。そのすごくあたりまえっぽい書き方も、楽しかった。何度も大事に読み返したい、宝物のような本です。
まとめ
キュートでほろ苦い半自伝的小説。主人公のサバイバルの武器としてのイマジネーションと、独特のユーモアが楽しいです。キリスト教の要素が濃いのに、同性愛に対する妙な背徳感だの罪悪感だのはなく、ひとりのレズビアン少女の性の目覚めを描く思春期小説としてもおすすめ。