石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的備忘録。

狙いはわかるんだがツメ甘し〜映画『マルガリータで乾杯を!』感想(ネタバレ)

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新しさとステレオタイプの壮絶な齟齬

Netflixで鑑賞。思春期のホルモンと性欲を持て余す障害者女性ライラ(カルキ・ケクラン)が、わりと軽率に性とアイデンティティーの探求にいそしむ物語。欠点だらけのクィアな障害者を主人公に据えたところは新しいものの、途中から話がステレオタイプに陥り、しかもまとめきれていないのが残念。

ライラというキャラの斬新さ

ライラはインドの大学生で、体に麻痺がある女性。液体はストローを介さねば飲めず、言語も不明瞭で、電動車椅子で生活しています。しかしこの映画は、彼女を決して「健常者を感動させるための健気な頑張り屋さん」枠に押し込めたりしません。彼女は逆に、障害者だからと勝手に同情されて下駄をはかされることに中指立ててファックユーと叫ぶ女です。iPad欲しさにおばあちゃんの形見を叩き売ったりもしていて、全然規範通りのいい子ちゃんではありません。恋愛やセックスにも興味しんしんで、ネットでポルノも見れば自慰もするし、車椅子の男友達を「実験台」にして積極的にキスやネッキングを試してみたりもしています。その一方、学内の男性ロックスター、ニマ(テンジン・ダラ)にのぼせ上がり、大変積極的に口説いたりも。ニマに振られて逃げるようにニューヨーク大学に編入した後もせっせと股を、じゃなかった己の地平線を拡げた彼女は、自分はバイセクシュアルだという新たな気づきをゲット。こんな障害者女性の、しかも有色人種のキャラって、ほかにいた?

この映画がさらに面白いのは、「ノーマルとは何か」という概念を、セクシュアリティと身体的障害のふたつの面から捉え直しているところ。娘から両性愛者であることをカミングアウトされて「ノーマルじゃないわ」と泣く母親に、ライラはこう言い返すんです。

「私はずっとそう言われてきた。今さら何が問題?」

異性愛の強制に抵抗し、異なっていることを喜びとする「クィア」の概念が、身体性を帯びてさらに強力に立ち現れる瞬間です。これはまた、障害者ものでもセクマイものでも執拗に繰り返されてきた「『ノーマル』ではないというハンデを乗り越えて頑張る人を見て勇気をもらいましょう」という搾取的表現への、「ノーマルじゃないけど、だから何?」という宣戦布告でもあります。愛情豊かなお母さんを演じるレーヴァティの好演が会話に厚みを添えていることもあり、たいへん印象的なシーンでした。ここがこの映画のもっとも感動的なところと言っても過言ではないほど。

後半でステレオタイプ乱舞

せっかくライラをこれだけ斬新なキャラとして描いたのに、話の後半が古臭い「不誠実なバイセクシュアル」ものの域から出ていないところが残念でした。ニューヨークで羽根を伸ばしたライラは、盲目のレズビアン・ハヌム(サヤーニー・グプター)と恋をして首尾よく同居を始めるのですが、それで自信をつけるやさっそくハヌムに内緒で介護係の男を誘惑し、ファックに励んでるんです。その後ライラは自分はバイセクシュアルだと言い出すんですが……これ、二重三重におかしくない?

この流れはまず、「バイセクシュアルは男女どちらか一方の恋人だけでは満足できないから必ず浮気をする」という古典的ステレオタイプの再現でしかありません。ひょっとしたら主人公が両性愛者であるということを表現するためだけにここで男とのベッドシーンを入れたつもりなのかもしれないけれど、やり方が雑すぎ。ヘテロは処女でも童貞でもヘテロとみなされるのに、非ヘテロのセクシュアリティはいちいち性交で「証明」しなきゃならないというのは変だし、百歩譲って、ここまで安直にバイセクシュアルへの偏見に乗っからない描き方を選んでもよかったのでは?

その後ライラがこの経験のことをハヌムにペラペラペラペラ喋り、理由について聞かれたときに返す言葉も最低でした。これもまた「欠点もある等身大の主人公」の演出のつもりだった可能性はありますが、障害者を健常者を感動させるためのモノとして描くことは拒否する一方で、レズビアンを非レズビアンの性の探求のための使い捨てグッズとして描いていたんじゃ、説得力はダダ下がりです。そう思って見ると、映画前半でのライラの自慰シーンにバイブレーターが出てくる(控えめな表現だけど、あれはそうだと思う)のは悪い意味で示唆的ですよね。Netflixはこの映画にラブロマンスのタグをつけていますが、これはロマンス映画なんかじゃなく、「性欲を持て余しているティーンエイジ・ガールが電動バイブレーターから人間バイブレーター(レズビアン)に乗り換え、同時進行で首尾よく男も咥えこんで『やったあ自己発見したあ』と喜ぶ物語」だと思います。女同士の愛とか全然ない。

ただ、これって一部のヘテロや非レズビアンの女性にはかえって共感しやすい物語構造なのかもしれないとは思います。女性との関係をそこまで大事に思ってない人たちって、ライラと同じようなことを平然とやって、「アタシも昔はいろいろあったわー」と青春のいい思い出風にまとめちゃったりするもんですから。でも、ライラをどこにでもいそうないち思春期女性として描くにあたって、

  • 人間なんだから当然悪態もつくよね!
  • 人間なんだから当然オナニーもするよね!

……という路線の延長として、

  • 人間なんだからレズビアンと付き合っていても当然男とセックスするよね!

…という描写を持ってくるのはどうかと思いました。それ全然、当然なんかじゃないから。

悲劇があればチャラなのか

終盤のプロットが詰め込みすぎで消化不良に陥っていると思います。おそらくあの結末には「自分を知り、欠点だらけの自分を愛そう」というメッセージが込められているんだろうけど、そしてそれ自体はとてもいいメッセージだと思うんだけど、そこまでの流れにかなり無理がある気がします。少なくとも、ハヌムを踏みにじったことからくる罪悪感が、他の全然別個の悲劇によってすっかりチャラにされるというのは都合が良すぎなんじゃないの。

まとめ

あまり物を考えてない主人公が、あたかも光に引き寄せられるゾウリムシのように性的経験へと突進しまくったあげく、「こんな自分を愛そう!」と自己完結して終わる物語。ライラを欠点もあれば失敗もするクィアな障害者として描いたところは面白いし、結末のメッセージも(そこだけ切り取れば)悪くないのだけれど、両性愛や女性同士の交際の扱いがネガティブなステレオタイプに陥っているところが残念でした。ラブロマンスとしては全然おすすめできませんし、もともとそういう映画ではないのだと思います。

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