石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

「ロッキングオン・ジャパン」2009年6月号の志村貴子さんインタビューが面白い

ROCKIN'ON JAPAN (ロッキング・オン・ジャパン) 2009年 06月号 [雑誌]

ROCKIN'ON JAPAN (ロッキング・オン・ジャパン) 2009年 06月号 [雑誌]

「この人に訊く!」コーナーに志村貴子さん登場

「ロッキングオン・ジャパン」2009年6月号の「この人に訊く!」コーナーで、漫画家の志村貴子さんがインタビューされています。ビューワー様から教えていただいて読んでみたのですが、とても面白かったです。

特に印象に残った部分を、いくつか抜き書きしてみます。カギカッコ内が志村さんのご発言です。

『青い花』について

「一過性のものにしたくない」


  • いわゆる百合ものっていうのは、彼女達がいる完成された世界そのものが大事で、その世界の決まりごとの中で、どうタブーを犯していくのかが醍醐味なんですけど、『青い花』が違うのは、その世界が全然完成してないというところで。あーちゃんとふみちゃん、それぞれ2人の属してる世界が交わって、そこにたくさんの人達が介在することで、世界がよりリアルになってる。

「そうですね。最初に描く上で、一過性のものにしたくないってのはあって。思春期の時期特有の、みたいな。物語が高校生活までを描くんだとしても、そこまでだけを描きたいってわけではなくて、その先にもずっと続く生活や、その可能性を含んだものを描きたいと思ってますね」

「私の作品では、単純に男女の恋愛もあるよっていう」「フィクションというか、ファンタジーというか、(中略)それはやだなって」

(引用者注:あーちゃんとふみちゃんの関係の変化が難しくなってきたという話の中で)

  • ここに男性が絡んでくると、また変わりますよね。

「そこがね、やっぱり難しいところですよね。百合ものって思ってると。そういう『どっちにいっちゃうの?』っていうハラハラするのが好きな人もいれば、完全に『男なんて出てこなくていい!』ぐらいの人もいるので、やっぱり難しいジャンルだなって思いますね。『青い花』を気に入って読んでくれてる人の中には、『どういうふうに転ぶかわかんないけど、面白かったらいいよ』って言ってくれる人もいれば、『余計な男キャラは出さないでほしい』とか(笑)。それがジャンルとしてはBLよりも難しいところというというか。私の作品では、単純に男女の恋愛もあるよっていう」


  • だからこそ『青い花』は、男女どうこう関係なく、誰かを好きになった時の心の動きに重点が置かれてるんですね。

「そうですね。だからどっちも描きたいっていうのはあって。女の子の話だけに特化しちゃうと、結局女の子同士の恋愛がフィクションというか、ファンタジーというか、そういうふうになっちゃいそうなので、それはやだなって」

感想など

ああやっぱり、と嬉しくなりました。

百合ものって、「異性愛の『正しさ』を信奉した上で、それが揺らぐスリルを味わう」という点を重視する人と、「単に女のコ同士の恋愛模様を見て楽しむ」という点を重視する人に分かれるような気がします。で、「一過性だからこそいい」なんていうのは、前者だと思うんですよ。なんていうのかな、「ヒーローアクションもので、最後には絶対にヒーロー(異性愛規範)が勝つと信じつつ、一時的に窮地に陥るヒーロー(異性愛規範)の姿にハラハラドキドキニヤニヤしたい」みたいな。

でも、異性愛規範マンセーでない人にとっては、そういうタイプの百合作品はまったく面白くないわけですよ。そんな規範、ヒーローじゃなくてただのヒールじゃん、弱い者いじめじゃん、そんなんが勝ちを独占して呵々大笑することを前提にこぢんまり作られた箱庭なんてヤだ、というわけ。で、『青い花』はまさにそういう人にうってつけの百合漫画だと思うんですね。フィクショナルな箱庭の中で、絶対のヒーロー・異性愛規範マン(ウーマン?)の大活躍を嬉しげに描く(※『男女恋愛は汚い!』的な描かれ方もありますけど、それも実はヘテロロマンス信仰の裏返しなんじゃないかと思います。『大嫌い』と『大好き』は表裏一体的な意味で)のではなく、もっと広がりのある世界で、もっと生身な女のコの恋がただ描かれていく作品。女のコを好きな女のコが、「異性愛の絶対性をおびやかして読者をハラハラさせるためのトリックスター」ではなく、どこにでもいるあたりまえの人間として扱ってもらえている作品。

志村さんはもともと、「とらのあな」のインタビューなどでも「百合っぽい関係を匂わせるとかじゃなくて、女の子同士の恋愛を描きます」「もうこの子達はお互いのことが好きなんだっていうことをハッキリさせるようにしたい」とおっしゃっておられたと思います。今回の「一過性のものにしたくない」「フィクションというか、ファンタジーというか、(中略)それはやだなって」というのも、それと同じところに根ざしているのでは。箱庭ではなく単なる「女のコ同士の恋」が見たいと思っている自分としては、読んでいてとてもとても嬉しかったです。

『放浪息子』について

「定義づけたい人にとってはモヤモヤしたものが残るかもしれないんですけど」

「(引用者中略)例えば『放浪息子』だと、ジェンダー的なことを扱ってるので、ちょいちょい『彼らはどういう状態なんだろう』みたいなことを語られがちなんですけど、『性同一性障害とは……』みたいな。でも私の中で、あえて性同一性障害っていう言葉は出さないっていうのがあって。そもそもあの言葉が好きじゃないってのもあるんですけど、社会派ドラマみたいなテーマで描いてるわけではないので、私の中では『男の子の格好をしてる女の子がいて、女の子の服を着たいって思ってる男の子がいてっていう、ただそれだけを描いてるだけなんですよね。定義づけたい人にとってはモヤモヤしたものが残るかもしれないんですけど、それでもそのキーワードは、私は絶対出さないからねっていうのはあって」

感想など

この発言にもすっごく納得。というのは、『放浪息子(8)』を読んだとき、あたしはまさしくこんなことを考えていたからです。

1. セクより「揺れ」のクィアネスについて

二鳥くんとあんなちゃんの関係って

  1. 純男純女の異性愛カップル
  2. 異性装(トランスヴェスタイト)の男性+異性装でない女性の異性愛カップル
  3. MTF+シスジェンダー女性の百合カップル

の間を揺れていると思うんですよ。もっと言ってしまうと、結局友情だったとか、あんなちゃんから見て二鳥くんが妹みたいに可愛かっただけとか、そういう関係に収束する可能性さえある。さらに言うと、二鳥くんが男装の高槻さんについドキドキしてしまうところなんかは「MTFヘテロセクシュアル+FTMヘテロセクシュアル」の異性愛っぽかったりもしますよね。このように二鳥くんのジェンダーとセクシュアリティは今回も揺れまくりで、そこがたいへん面白かったです。

ジェンダーもセクも、一意にカテゴライズしちゃった方が楽だとは思うんですよ。「この人は“MTFレズビアン”だから“女”が好きなのだ!」とか、「“MTFヘテロ”だから“男”が好きなのだ!」とか。でも、それって要するに一種の思考停止でもあるわけ(日常生活の中で、あたしも含めて多くの人がやってることですけど)。この漫画は決してそうした思考停止に陥らず、二鳥くんの揺れ具合を大切に大切に描いていきます。人を単一の性別やセクシュアリティに落とし込むことより、「じっくりと揺れる」、「むしろ揺れを味わう」ことの方に力点を置いた描き方がまことにクィアですばらしいと思いました。これを読んでいると、いちいち人をジェンダーとセクで分類することがアホらしくなってきますよ。

あたしが『放浪息子』でいちばん好きなのはこの「じっくりと揺れる」「むしろ揺れを味わう」というクィアネスです。なので、レビューを書くときにもなるべく「女の子になりたい男の子と、男の子になりたい女の子の話」「二鳥くんがMtFかどうかはわかりません」という風に紹介するようにしていたんですが、作者さん自らに「定義づけをしない」という意向があったんですね。非常に腑に落ちました。やっぱり好きだなあ、この作風。

その他

上に挙げた以外にも、『青い花』アニメ化の話や『どうにかなる日々』の話などさまざまな話題が登場しており、とても楽しく読みました。文字数もたっぷりで充実したインタビューなので、ファンの方は、ぜひ。