石壁に百合の花咲く

いちレズビアンの個人的メモ。

誰も死なない(!)極上のラブロマンス― 映画『キャロル』感想(ネタバレあり)

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強烈で濃厚なラブロマンス

1952年のニューヨークを舞台に描かれる、19歳の女性テレーズ(ルーニー・マーラ)と美しい人妻キャロル(ケイト・ブランシェット)との濃厚なラブロマンス。巧みな暗喩表現や、マッドマックスにも通じる今日的なメッセージ、奥行きのある人物造形、そして誰も死なないオチのつけ方が大変よかったです。

手による暗喩が『バウンド』超え

レズビアンのセックス専門家("sexpert")にして脚本コンサルタント/プロデューサー/ディレクター/エロティカ小説家のスージー・ブライトは、かつて著書『スージー・ブライトのレズビアン作法』(第三書館)で、映画における女性同士のエロティシズムの描写についてこう書きました。

互いにいちゃつきあったり愛の行為をしている時は、いつでも女性の手をエロティックに見せるべきなのだ。

これはスージーが映画『バウンド』のコンサルタントをつとめたときにしたアドバイス。その『バウンド』から19年たった今、『キャロル』を見たあたしは思いました。――この映画、『バウンド』を超えたわ。ついに『バウンド』超えが出たわ。

『キャロル』はまず、何気ない場面でのケイト・ブランシェットの手の表現のエロティシズムがとにかくすごいんです。とくにそれが顕著なのが、冒頭付近のリッツ・タワー・ホテルのバー(またはラウンジ)の場面。テレーズの肩にそっと置かれたキャロルの手と、それに対するテレーズの反応を見たたけで、スージー・ブライトの上記のことばが電撃のように脳裏をよぎりました。さらに、それに続く以下の文章も瞬時に思い出しました。

「レズビアンの手は彼女のペニスであり、それらは映画で勃起するので見る者は目で追いかけたくなるのです」

「スクリーンでコーキー(引用者注:『バウンド』のキャラクタの名前)の両手を見た時、これが私の中に入ったらどんな感じがするだろうと想像してみたくなったものです。それは、人に見せたくない性器の写真の象徴的表現の代用なのです」

この「コーキー」の部分を「キャロル」に置き換えれば、そのままこの作品になります。先述の場面でのキャロルの手の色っぽさだけでも、もう脳みそがドーパミンで溺れ死ぬんじゃないかと思いましたよまったく。ここ以外でもケイト・ブランシェットの手の表情は常にありえないほど蠱惑的で、最後の最後まで目が離せませんでした。意識してそのように撮っているのだと、あたしは思います。

そして、『キャロル』が『バウンド』よりさらに頭一つ抜けているのは、手を使った暗喩表現がセクシュアリティのみならず映画全体の内容をも指し示し得ているところ。この作品は、先述のリッツの場面を皮切りに「ここに至るまでに何があったのか」を振り返り、終盤で再びリッツでの同じ会話を見せるといういわばサンドイッチのような構成になっているのですが、サンドイッチのパンにあたる2度の会話場面での「手」の描かれ方にぜひご注目を。キャロルの手とテレーズの男友達ジャックの手の対比、それらに対するテレーズの顔と身体の表情の違い、そして冒頭と終盤でのカット割の違いは、心憎いほど鮮やかです。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』in 50年代ニューヨーク

リッツでの会話の場面がサンドイッチのパンだとしたら、具に相当する部分は何なのか。ひとことで言うなら「行きて帰りし物語」、今ふうに言えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』です。つまりこの映画って、"WE ARE NOT THINGS"*1という怒りとともに旅立った主人公たちが、塩の湖*2を越えて逃げ続けても未来はないと学び、元の地に戻って正攻法で困難を乗り越えるという物語なんです。ここもおもしろかった、本当におもしろかった。

キャロルの夫ハージも、テレーズの恋人リチャードも、彼らなりにキャロルやテレーズのことを愛しているつもりではあるのでしょう。しかし、実際にはふたりとも彼女たちのことをパズルのピースかゲームの駒として必要としているだけで、相手の内面についてはいっそ無邪気なほど何も考えていません。キャロルのこれまでの大晦日の思い出や、リチャードの旅行と転職に関する見解などを見ればわかる通り、彼らにとってはキャロルやテレーズは個々のニーズや欲求を持った人間ではなく、美しい妻として屈服させ、傍に置いておくことで自分が満足を得るための道具なんです。

こうした抑圧に反発した女ふたりで旅に出るという展開が今日的で(原作が出版されたの、1952年ですけど)痛快でしたし、その先に描かれる現実との折り合いのつけさせ方はさらに革新的でした。正直言って、離婚を控えて愛娘の親権を争っている最中にデパートでひっかけた若いお姉ちゃん(テレーズ)といきなり旅に出てしまうキャロルも、それにふらふらついて行っちゃうテレーズも、ある意味お馬鹿さんだとは思うんですよ。しかしながらこの作品は、彼女たちの逃避行をよくある「同性愛という幼稚な関係の破滅」路線で片付けたりはしていません。逆に、手堅い構成(いわゆる『お楽しみ』パートの直後に『迫り来る悪いやつら』→『すべてを失って』→『心の闇』→『第2ターニングポイント』*3という完璧な展開がたたみかけるように続きます)と魅力的なキャラ造形、サスペンスの盛り上げなどによって、一瞬たりとも目が離せない変化と成長の物語として完成させているんです。ニューヨークに戻ってからキャロルがハージにつきつける決め台詞なんて、最高ですよもう。傷つきながらも正面突破でイモータンジョー*4の砦を落としてますよ、キャロル。

誰も死なないラブロマンス

上で書いた「現実との折り合いのつけさせ方」にも通じる話なんですが、とにかく誰も死なせず破滅もさせないオチのつけ方がすばらしすぎます。女同士で愛し合ったからって、この映画では最後に車ごと崖から落っこちたりしないの。どちらかがどちらかを殺したりもしないの。雪や水の中に身を投じて自殺を図ったりもしないの。どちらかがサイコな殺人鬼やモンスターと化して誰かを殺し始めたりもしないの。ついでにいうと、やにわに異性とくっついてファックし始めたりもしないの。とにかく誰も死なず、殺さず、女性同士のラブロマンスとして格調を保ったままハッピーエンドを迎えるのよ!!!!!

これがいかに貴重なことか。映画が終わって場内に電気がついた瞬間のあたしと彼女(共に予備知識ほとんどなしで鑑賞に臨んでいました)の会話は、こんなでした。

彼女「誰も死なない!」

あたし「ロードムービー展開になったときは『テルマ・アンド・ルイーズか!?』って一瞬思ったけど……」

彼女「いい時代になったよねえ……」

あたし「昔はさー、ほらアマンダ・プラマーのあれとかさあ」

彼女(間髪を入れず)「『バタフライ・キス』

あたし「連続殺人鬼だわ鎖ジャラジャラだわ最後が(ネタバレ防止のため伏せます)。あんなんばっかりだったよね昔は」

彼女「心中しちゃったり、死なないまでも自殺未遂したりとかね」

あたし「"Dead/evil lesbian cliche"*5ってやつね」

彼女「TVだといまだにそのパターンが多いのよ。でも映画はずいぶん変わったよね」

あたし「90年代に女同士のハッピーエンドをやった『バウンド』がいかに画期的だったかって話だよね。でも『バウンド』と言えばさ、スージー・ブライトが(この部分、このレビューの冒頭で書いたことと同じなので割愛)というわけで『キャロル』はあたしの中では『バウンド』を超えました」

彼女「『キャロル』は『誰も死なないラブロマンス』として、レズビアンのデートムービーに最適なのでは」

あたし「また観に来よう」

彼女「来よう」

思えば半世紀以上前にパトリシア・ハイスミスが書いた表現に、今ようやく映画界が追いついたんですね。マザファッキンなこの世界も、少しは進歩してるってことよね。

キャラ3人の奥深さ

上の方で書いた、魅力的なキャラ造形についてちょっと補足。この映画のいいところのひとつは、キャロルやテレーズ、そしてキャロルの元彼女のアビー(サラ・ポールソン)に人間らしい厚みがあるところです。

まずキャロルについて。日本のネット界隈では当節ケイト・ブランシェットの彼氏感だの宝塚の男役的なかっこよさだのが大いに話題になっているようです。しかし、あたしとしては、このキャラの最大の魅力はそこよりむしろ、ゴージャスなたたずまいの中にひそむ意外なヴァルネラビリティやかわいらしさの方にあると思います。

もちろんキャロルの、デパートのショーケースの向こうにただ立っているだけで見る者のハートを射貫いてしまうほど力強い美しさはたしかに圧倒的です。しかし、その場面よりむしろ、旅の途中のホテルで彼女がテレーズに"You don’t have to sleep over there."(そっちのベッドで寝なくてもいいのよ)とつぶやく場面の方にあたしは心を揺さぶられました。テレーズを守ろうとする台詞であると同時に、「心もとないから傍にいてほしい」というサブテキストも絶対あるでしょうあれは。何なのあのよるべない子どものようないたいけさは。あんなの、テレーズじゃなくたって一瞬でメロメロになるわよ! ルパンダイブでベッドに飛び込んじゃうわよ!(※2016年2月21日追記:その後2度3度と鑑賞を重ねた結果、この"You don’t have to sleep over there."の場面は、テレーズを『解き放つ』と決めたキャロルが胸を引き裂かれる思いでベッドに誘っていると解釈した方がより的確なような気がしてきました。それはそれでやっぱりいたいけでキュンキュンするんだけど、キャロルの弱さやあやうさがかもし出す魅力を示す例としては、ここよりも台無しになったクリスマスの夜の電話の場面の方がよりふさわしいかと。あの電話口での性急な"Would you - let me come see you... tomorrow evening?"という申し出とか、すがるように"Ask me. Things. Please."というときの口調とか、たまんないですもう)

次、テレーズについて。うぶで不安定で一見手の中の小鳥のように弱々しくも見える彼女が、実は列車セットが大好きだったり、カメラに熱中して写真を撮りためていたりするという設定が斬新でした。キャロルとの恋においても、一目惚れして自分から積極的に行動を起こしていくさまがきちんと描かれており、受け身なだけの平板なキャラではないことがよく伝わってきます。

女性同士のロマンスというとどうしても「年上が年下を誘惑する」だの「教え導く」だのといったアホらしいクリシェが登場しがちですが、そしてそれはたぶんヘテロ恋愛であらまほしきこととされる「男」役割が年上に、「女」役割が年下に投影されているのだと思うのですが、この映画はそんな退屈なパターンとは一線を画しています。キャロルとテレーズの双方に独自の考え方や態度を持たせることで、オリジナルなキャラのオリジナルなケミストリーを描くことに成功しているんです。

最後にアビーについて。昔キャロルとごく短期間恋人同士だった彼女が、現在もキャロルの親友として陰になり日向になり力になってくれているところが、「あるある」感にあふれていてとてもよかったです。そうなのよ、レズビアン(または、女性が好きな女性)って、別に恋愛やセックスにかかわるときだけ存在する生き物じゃないのよ。こんな形の友情だって、しっかり続いたりするのよ。

この映画のラストシーンにはハイスミスらしい曖昧さがあり、ハッピーエンドではあるけれどもこの先キャロルたちの恋がずっと続くかどうかは誰にも断言できないといった切り口になっています。しかし、お話の中にアビーというキャラがいることで、「たとえ恋が終わっても誰のせいでもないし、そこで幸福が終わるわけでもない」ということもまたさりげなく暗示されています。この物語の最後の部分が、ありがちな「キスの大写しでジャジャーンと音楽が鳴って"happily ever after"を喧伝」的な終わり方より何倍も誠実であたたかなものに感じられるのは、アビーによるところが大きいとあたしは感じました。

その他

ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの繊細な演技が良くて良くて。そりゃあありとあらゆる賞でノミネートされたり、受賞したりしてるわけだわ。日本での上映館数はそう多くないようですし、DVD待ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、可能なら映画館の大画面で見た方がいいですよ絶対。名古屋・伏見のミリオン座なら今、ケイト・ブランシェットのサイン入りポスター(このエントリのアイキャッチ画像は、そのポスターを撮影したものです)も展示中ですよ。

まとめ

女性同士のこれだけ濃厚で格調高いラブロマンスを1951年に書いたパトリシア・ハイスミスがまず偉いし、それをここまで巧みに映画化した人たちにも大拍手。今日的なテーマも、ステレオタイプを廃したシナリオやキャラ設定も、匂い立つ官能もみんなみんなよかったです。英語圏のライターさんが、本作品の鑑賞後1週間ぐらい"keep Caroling"(『キャロル』のことを言ったり書いたり考えたりし続けること)したと書いていらした理由が、よくわかりました。ちょっとこれからしばらく映画館に通うわ。1回だけの鑑賞じゃ足りないわ。合言葉は"Keep Caroling"よっ!!

*1:『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のとある場面で壁に書かれている文言。

*2:『マッドマックス 怒りのデス・ロード』で主人公一行が旅の果てにたどりついた場所。

*3:これらの用語については、詳しくは以下の本をご参照ください: Snider, B. (2010). 『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』(菊池淳子. Trans.). 東京. フィルムアート社.

*4:『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のラスボス。

*5:レズビアンのキャラは最後に死ぬか、邪悪な存在として排除されるという陳腐なパターンのこと。"Dead Lesbian Syndrome"とも。